高木英次郎
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高木 英次郎(たかぎ えいじろう、1852年1月8日(嘉永4年12月28日) - 1904年(明治37年)6月2日)は、幕末の佐賀藩士、明治期の海軍軍人。佐賀市水ヶ江出身。最終階級は海軍少将(死後昇進)。栄典は従四位勲三等功四級。
経歴
1852年、佐賀藩士高木彌左衛門の第2子として生まれる。藩校弘道館に学んだのち、1865年(慶応元年)佐賀藩の海軍兵学校「船手稽古所」(三重津海軍所の当時における呼称)に入校。戊辰戦争には佐賀藩艦甲子丸の乗員として出征した。1871年(明治4年)燈台寮技術見習を拝命。1874年(明治7年)海軍少尉に任官した。さらに1876年(明治9年)には鳳翔乗員として西南戦争に出征。1883年(明治16年)には龍驤乗員の一員として、南米への遠洋航海や翌年の甲申事変への対応を行った。
その後扶桑航海長、水路部測量班長、扶桑副長、磐城艦長、水路部図誌科長、同測量科長を経て、日清戦争に連合艦隊航海長として旗艦松島に乗艦。黄海海戦などに参加、威海衛攻略で負傷したものの戦後大佐に昇進。山城丸艦長、横須賀知港事、葛城艦長、秋津洲艦長、和泉艦長、呉海兵団長、水路部測量課長を歴任し1903年(明治36年)7月待命。翌年5月に死去した。54歳。6月少将に進み特旨を以て従四位に叙され青山墓地に葬られた。
栄典・授章・授賞
- 位階
- 勲章等
脚注
出典
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