静照庵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/01 05:18 UTC 版)
静照庵の呼称が見られるのは実如の書状(静照庵と但馬興宗寺から報恩講の懇志を受け取ったという返答)などである。 これは第六世慶祐が隠居し、興宗寺隣地に建てた庵のことである。しかし、慶祐の子息祐玄(興宗寺歴代には数えられていない)が死去したことにより慶祐が但馬興宗寺住持に復帰した為、娘婿に月津太子堂より慶了を迎え静照庵の住持とした。実如から下付された方便法身尊像の裏書にも「長畝郷但馬静照庵 願主釈慶了」とある。 しかし興宗寺に新たな子息が生まれなかった為、慶了は興宗寺の第七世となり、また、第八世誓了の時代に柳町に転じたこともあり、静照庵は廃庵になってしまったようである。
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