陵墓と死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 16:26 UTC 版)
晩年は病気がちとなり、それまで抑圧していた仏教にすがるようになった。1450年、53歳で薨去した。先に没していた昭憲王后とともに、太宗の陵墓である献陵(現在のソウル特別市瑞草区)に合葬された。1469年、昭憲王后とともに京畿道驪州郡の英陵(通称・世宗大王陵)に移葬されている。 文字の読めなかった国民を哀れんで、ハングル(訓民正音)の創製を行ったことで知られている。死後も韓国国内で一般的に讃えられている。儒教の理想とする王道政治を展開したとして、朝鮮王朝における最高の聖君と評価されている。韓国では子供から老人まで幅広い層に尊敬されている国民的英雄である。後年「海東の堯舜」(海東は朝鮮の別名)と称された。このため廟号は世宗であるが、朝鮮史では李氏朝鮮の歴代国王の中で聖君(最高の名君)と尊敬されている意味で世宗大王(세종대왕、セジョンデワン、せそうだいおう)とも言われる。
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