ちん‐じゅ【陳寿】
陳寿
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陳 寿(陳壽、ちん じゅ、建興11年〈233年〉? - 元康7年〈297年〉?)は[注釈 1]、中国の三国時代の蜀漢と西晋に仕えた官僚。字は承祚(しょうそ)。『三国志』の著者として知られる。甥は陳符(字は長信)・陳蒞(字は叔度)・陳階(字は達芝)[注釈 2]、一族に陳式[要出典]。
注釈
- ^ 『晋書』陳寿伝と『華陽国志』では没年が異なり、『華陽国志』では「張華が没した300年以降」と記録されている。
- ^ ともに陳符と陳蒞は陳寿の兄の子、陳階は陳蒞の従弟(『華陽国志』「後賢志」陳寿伝訳注、原文「兄子符,……符弟蒞,……蒞従弟階,字達芝,州主簿,察孝廉,褒中令、永昌西部都尉、建寧興古太守。皆辞章粲麗,馳名当世。凡寿所述作二百余篇,符、蒞、階各数十篇,二州及華夏文士多為作伝,大較如此。」)。
- ^ これは儒教の礼教において、親が死ぬと子は嘆き悲しみ、飲食も碌に摂らず痩せさらばえ、杖無しでは歩けぬ程に成るのが「孝」とされた為であり、親の服喪中に我が身を労わるのは以ての外とされていたからである。
- ^ 『蜀志』諸葛亮伝注による。
- ^ 正史『晋書』は648年刊。
- ^ 王鳴盛の『十七史商榷』の陳寿擁護にはいくつかの事実誤認(丁儀らは単なる巧佞の臣で伝を立てられるはずがない、諸葛亮は6度も祁山に出征し、一勝も収めなかったなど)があり、反論を受けている。丁儀は曹操に高く評価され、その死を世に惜しまれたとされ、『魏略』にはその伝が立てられている。また陳寿の『三国志』自体によれば、諸葛亮が祁山に出たのは2度であり、北伐全体も5度で、第三次北伐では勝利も挙げている。
- ^ 裴松之は本件について注釈において、「蜀漢正統論」を唱えた最初の歴史書として知られる習鑿歯の『漢晋春秋』を使って補っている。
- ^ 陳寿同様に蜀漢の旧臣で西晋に仕えた李密(『文選』などに採録された、『陳情事表』で知られる文人)に対しても、同様の非難が浴びせられている。
出典
- ^ a b c 田中靖彦 2011, p. 70.
- ^ a b c d 田中靖彦 2011, p. 71.
- ^ 田中靖彦 2011, p. 73.
- ^ a b 田中靖彦 2011, p. 84.
- ^ 田中靖彦 2011, p. 90.
- ^ a b 田中靖彦 2011, p. 85.
- ^ a b c 田中靖彦 2011, p. 83.
- ^ a b c d 田中靖彦 2011, p. 87.
- ^ a b 田中靖彦 2011, p. 71-72.
- ^ 田中靖彦 2011, p. 78.
- ^ 田中靖彦 2011, p. 76.
- ^ 田中靖彦 2011, p. 78-80.
- ^ 田中靖彦 2011, p. 81.
- ^ 渡邉義浩『「古典中国」における史學と儒教』汲古書院、2022年、P107-113.
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