錦野牧場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 00:38 UTC 版)
タマモクロスが勝利から遠ざかっていた1987年5月、錦野牧場は経営不振から閉鎖した。錦野の負債は東京都で不動産業を営んでいた飯島和吉が肩代わりした。錦野牧場を営んでいた錦野は東京近郊に移り、建築関係の仕事に転職。繋養していた繁殖牝馬や幼駒は方々に散らばった。タマモクロスの母グリーンシャトーも売りに出され、1986年の秋からはマエコウファームに繋養されていた。しかし、1987年6月24日に父アーテイアスの牡馬を出産した直後の7月、腸捻転で13歳で死亡している。また錦野牧場跡地では、タマモクロスが藤森特別にて3勝目を挙げた11月1日、錦野の負債を肩代わりした飯島和吉の次男・飯島功典が土地と設備を受け継ぎ、新たにグリー牧場を開場している。 錦野と債権者との間には種々の問題が残っていたため、錦野は表に出ることや表彰台に立つことはなかったが、生産馬の晴れ姿を見るために、人目を忍んで天皇賞(春)の京都競馬場に訪れている。1988年の秋には、グリー牧場が債権者に勝訴する目途が立ち、ミヤマポピーの出走するエリザベス女王杯には錦野を招待することを飯島功典が明かしている。 なお、倒産前に錦野牧場が生産したタマモクロス(天皇賞春・秋、宝塚記念)、ミヤマポピー(エリザベス女王杯)など5頭は、1988年の1年間で約5億3000万円を稼いだ。この結果、276頭が出走し15連覇の社台ファーム、123頭が出走し2位の西山牧場に次いで、1988年第3位の生産者となっていた。
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