都留郡の立郡と相模国との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/19 07:27 UTC 版)
「都留郡」の記事における「都留郡の立郡と相模国との関係」の解説
甲斐四郡の正確な成立時期は不明だが、大化の改新以後には東国においても徐々に国郡編制が進められており、甲斐国では唯一確認される甲斐国造のほか各地を分割統治していた古墳時代以来の有力豪族が立郡に携わっていると考えられている。7世紀の天武朝には全国的な広域行政区画である七道制が定められた結果国郡制が完成し甲斐国は東海道に編入されるが、この頃には甲斐四郡もそれぞれ立郡されていたと考えられている。 文献史学における部民の分布や考古学的知見から、天武朝期に東海道へ編入された「甲斐」は国中地方のみを指し、都留郡域はこれまで相武国造の支配領域であったとする説が提唱されており、甲斐四郡の中でも官衙所在となった山梨・八代両郡と比べて、都留郡は渡来人勢力が立郡に関わっていると考えられている巨麻郡とともに特殊な立郡経緯が想定されている。 甲斐国の東海道編入に際しては東海道支路が設定され、駿河国横走駅から分岐して籠坂峠(加古坂)を経て都留郡域へ入り、御坂峠を経て山梨・八代郡域に想定されている甲斐国府へ至る甲斐国府へ至る官路(甲斐路、御坂路)が定められたが、都留郡はこの東海道支路の設定に伴い甲斐国へ編入された可能性が考えられている。
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