近江天保義民
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/12 01:24 UTC 版)
逸治郎が数え4歳の1842年(天保13年)10月、幕府の不正な検地に対し近江国野洲郡・栗太郡・甲賀郡の農民4万人が野洲郡三上村に集まり、幕末最大の一揆『近江天保一揆』が起こった。一揆は検地の10万日延期を勝ち取ったが、幕府により一揆参加者へ徹底した弾圧が行われ、多くの関係者が大津の代官所で責め殺され、特に三上村の庄屋土川平兵衛ら一揆首謀者十一人は江戸送りとなり全員が抹殺された。逸治郎が育った守山宿吉身村は一揆中心地に隣接し、多くの滋賀県湖南地区の政治指導者と同様に逸治郎は天保義民の影響を受けたと考えられる。
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