趙宗儒とは? わかりやすく解説

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趙宗儒

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/01 07:35 UTC 版)

趙 宗儒(ちょう そうじゅ、746年 - 832年)は、唐代官僚政治家は秉文[1][2]本貫鄧州穣県[2]

経歴

秘書少監の趙驊の子として生まれた。進士に及第し、弘文館校書郎を初任とした。書判の試験に合格し、陸渾県主簿に任じられた。数カ月で召還されて、右拾遺となり、翰林学士をつとめた。建中4年(783年)、屯田員外郎に転じた。父が死去したため、宗儒は辞職して喪に服した。喪が明けると、宗儒は司門員外郎・司勲員外郎を歴任した[1][2]

貞元6年(790年)、宗儒は知考功司事となり、官吏の考課を定めるにあたって、権門を恐れず、公正に評価した。徳宗にこれを称賛されて、考功郎中に進んだ。母が死去したため、宗儒は辞職して喪に服した。喪が明けると、宗儒は吏部郎中に任じられた。貞元11年(795年)、給事中に転じた[1][2]

貞元12年(796年)、宗儒は本官のまま同中書門下平章事(宰相)となり、紫金魚袋を賜った。貞元14年(798年)、宰相から退任し、太子右庶子となった。貞元20年(804年)、吏部侍郎に進んだ。貞元21年(805年)、徳宗が死去すると、宗儒は順宗の命を受けて徳宗のための哀冊文を作った[3][2]

元和元年(806年)、宗儒は検校礼部尚書となり、判東都尚書省事をつとめた。御史大夫を兼ね、東都留守・東都畿汝州都防禦使をつとめた。入朝して礼部尚書戸部尚書を歴任した。ほどなく検校吏部尚書となり、御史大夫を兼ね、江陵尹・荊南節度観察等使をつとめた。余剰な兵2000人を解散させた。元和6年(811年)、入朝して刑部尚書となった。元和8年(813年)、検校吏部尚書に転じ、御史大夫を兼ね、興元尹・山南西道節度観察等使をつとめた。元和9年(814年)、長安に召還されて御史大夫に任じられた。まもなく検校尚書右僕射に転じ、御史大夫を兼ね、河中尹・河中節度・晋絳慈隰観察等使をつとめた。赴任後、軍に供する銭8000貫あまりを勝手に使用した罪に問われて、1月分の俸給を減給された。元和11年(816年)7月、入朝して兵部尚書となった。9月、太子少傅に転じ、知吏部尚書銓事をつとめた。元和14年(819年)9月、吏部尚書に任じられた。元和15年(820年)、再び太子少傅に任じられ、判太常寺卿事をつとめた[4][5]

長慶4年(824年)6月、宗儒は判太常寺卿事のまま、検校尚書右僕射となった。この年の8月、太子少師に転じた。宝暦元年(825年)、太子太保に任じられた。宝暦2年12月(827年1月)、敬宗が死去すると、宗儒は大明宮留守をつとめた。大和4年(830年)、検校司空となり、太子太傅を兼ねた。文宗に召し出されて国家統治の道を諮問されると、宗儒は物を大切にして倹約するよう答えた。大和5年(831年)、宋申錫が誣告されると、文宗は太師・太保以下の官を召し出してその刑罰を議論させたが、宗儒は高齢を理由に受けなかった。ほどなく上疏して引退を願い出た。大和6年(832年)、司空として致仕した。9月、死去した。享年は87。司徒の位を追贈された。は昭といった[6][7]

脚注

  1. ^ a b c 旧唐書 1975, p. 4361.
  2. ^ a b c d e 新唐書 1975, p. 4826.
  3. ^ 旧唐書 1975, pp. 4361–4362.
  4. ^ 旧唐書 1975, pp. 4362–4363.
  5. ^ 新唐書 1975, pp. 4826–4827.
  6. ^ 旧唐書 1975, p. 4363.
  7. ^ 新唐書 1975, p. 4827.

伝記資料

参考文献




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