赤井官衙遺跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/29 22:32 UTC 版)
赤井官衙遺跡(あかいかんがいせき)は、宮城県東松島市赤井に所在する古代の郡衙跡を中心とする複合遺跡。近隣の矢本横穴とともに赤井官衙遺跡群を構成し「赤井官衙遺跡群 赤井官衙遺跡 矢本横穴」の名称で、2021年(令和3年)3月26日に国の史跡に指定された[1][2][3]。
解説
奈良時代に築かれた多賀城の周辺には、「天平五柵」といわれる5つの城柵(牡鹿柵・色麻柵・玉造柵・新田柵の4柵、および名称不明の1柵)が置かれたことが『続日本紀』天平9年(739年)4月条に見える[4]。
赤井官衙遺跡では、1986年(昭和61年)より東松島市教育委員会の本格的な発掘調査が行われ、高床倉庫群(正倉)や郡家の居館と見られる掘立柱建物や区画が検出され、牡鹿郡衙跡として知られていた。城柵跡とみられる木塀の遺構も検出されたことから、郡家のほか天平五柵のひとつである牡鹿柵も兼ねていたことが判明した[5]。また、5キロメートルほど離れた丘陵の斜面には一族が葬られた矢本横穴があり、造営したのは古代の陸奥国で随一の豪族となり陸奥経営に大功があった道嶋氏と考えられている[注釈 1][6][7]。
脚注
注釈
出典
- ^ 文化庁. “赤井官衙遺跡群・赤井官衙遺跡・矢本横穴”. 文化遺産オンライン. 2025年4月27日閲覧。
- ^ 文化財課保存活用班 (2022年12月2日). “赤井官衙遺跡群・赤井官衙遺跡・矢本横穴(東松島市)”. 宮城県. 2025年4月27日閲覧。
- ^ a b 奥松島縄文村歴史資料館. “国史跡 赤井官衙遺跡群”. 奥松島縄文村歴史資料館. 2025年4月27日閲覧。
- ^ 八木 2001, pp. 55–68.
- ^ 佐藤 2024, pp. 103–116.
- ^ “赤井官衙遺跡・発掘調査”. 河北新報 (2024年2月28日). 2025年3月22日閲覧。
- ^ “東松島の赤井官衙遺跡群、国史跡へ”. 朝日新聞 (2020年11月21日). 2025年3月22日閲覧。
参考文献
- 八木, 光則「城柵の再編」『日本考古学』第8巻第12号、日本考古学協会、2001年、55-68頁、doi:10.11215/nihonkokogaku1994.8.12_55、ISBN 9784642094122、ISSN 18837026。
- 佐藤, 敏幸 著「赤井官衙遺跡(牡鹿柵・郡家)」、古代城柵官衙遺跡検討会 編『古代東北の城柵・官衙遺跡』古代城柵官衙遺跡検討会 50周年記念大会実行委員会、2024年2月22日、103-116頁。doi:10.24484/sitereports.138772。 NCID BD05791361 。
関連項目
外部リンク
- 赤井官衙遺跡群(赤井官衙遺跡・矢本横穴) - 国指定文化財等データベース(文化庁)
座標: 北緯38度26分56.5秒 東経141度12分27.1秒 / 北緯38.449028度 東経141.207528度
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