講談社「子規全集」事件
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講談社は、1975年4月から『子規全集』(全25巻)の配本を始めるに際し、1974年7月からプロジェクトチーム「子規全集編集部」を作り、編集作業を開始した。このとき子規の俳句に「穢多」の語を使った句が5つあることがわかったため、1975年1月、編集担当者が大阪の部落解放同盟本部へ赴いて協議した。その結果、次の条件で折り合いがついた。 部落解放同盟による監修を受け、監修料を支払うこと。 第1回配本の「月報」パンフレットに部落解放同盟の主張を載せること。 そして監修陣4人の中には、部落解放同盟に近い立場の詩人ぬやま・ひろし(西沢隆二)が加えられた。通常の監修料は有名人でも数万円が相場であるところ、部落解放同盟には巨額の監修料が支払われたといわれる。 講談社によるこの措置については、当時部落解放同盟による糾弾の嵐が吹き荒れていた中、糾弾の動きを事前に回避して「金で解決するならという大出版資本らしい発想」の存在を指摘する声もある。
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