親平家方豪族として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 02:25 UTC 版)
東国における親平家方豪族として平清盛からの信頼を受け、平治元年(1159年)の平治の乱に敗れて伊豆に配流された源頼朝の監視を任される。しかし『曽我物語』などの物語類によると、祐親が大番役で上洛している間に、三女(八重姫)が頼朝と通じ、子・千鶴丸を儲けるまでの仲になってしまう。祐親はこれを知って激怒し、平家の怒りを恐れ千鶴丸を松川に沈めて殺害。さらに頼朝自身の殺害を図った。祐親次男の祐清が頼朝に知らせ、頼朝は夜間馬に乗って熱海の伊豆山神社に逃げ込み、北条時政の館に匿われて事なきを得たという。なお、時政の正室は祐親の娘であったため、祐親から見れば娘婿の裏切りにあったことになる。祐親はこの前後に出家している。 なお『吾妻鏡』の治承4年(1180年)10月19日条と養和2年(1182年)2月15日条にも、安元元年(1175年)9月頃、祐親が頼朝を殺害しようとしたところ、頼朝の乳母・比企尼の三女を妻としていた次男祐清がそれを告げて、頼朝が走湯権現に逃れたことが記されている。
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