褚無量とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 褚無量の意味・解説 

褚無量

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/13 13:52 UTC 版)

褚 無量(ちょ ぶりょう、646年 - 720年)は、唐代学者官僚は弘度。本貫杭州塩官県[1][2]

経歴

幼くして父を失い、貧しい中でも学問を好んだ。成長すると、とくに三礼と『史記』に詳しかった。明経に挙げられ、国子博士に累進した。景龍3年(709年)、国子司業に転じ、修文館学士を兼ねた。この年、中宗が自ら南郊を祀ろうと、礼官や学士に詔して礼式を定めさせようとした。国子祭酒の祝欽明や司業の郭山惲は中宗の意を受けて、武則天を亜献とするよう請願した。無量は太常博士の唐紹や蔣欽緒とともにこれに反対した。左僕射の韋巨源らが中宗の意におもねって、祝欽明の意見に賛同し、無量の上奏は聞き入れられなかった[3][4]

ほどなく無量は母が老齢であるのを理由に停官を請い、帰宅を侍った。景雲元年(710年)、李隆基皇太子となると、無量は召し出されて国子司業に任じられ、皇太子侍読を兼ねた。『翼善記』を編纂して李隆基に進上した。太極元年(712年)、李隆基が国学で釈奠をおこなうと、無量は『老子道徳経』や『礼記』を講義した。銀青光禄大夫の位に進んだ。先天元年(同年)、玄宗(李隆基)が即位すると、無量は郯王傅に転じ、国子祭酒を兼ねた。ほどなく国子祭酒を兼ねたまま、左散騎常侍に転じ、舒国公に封じられた。ほどなく母が死去したため、無量は辞職して喪に服した。喪が明けると、左散騎常侍・侍読として復職した。老齢を理由に杖をついて宮中に出入りし、内殿で輿を使うことを特別に許可された。無量はたびたび時政の得失を述べて上書し、その多くは聞き入れられた[5][6]

無量は高宗の代からある宮中の蔵書が傷んできていたため、書籍の修繕・書写・校勘をおこなうよう上奏した。玄宗は東都洛陽の乾元殿の前に書籍を配架させ、書物の大規模な捜索と書写をおこなわせ、広く天下の異本を集めさせた。数年間で四部の書籍は充実し、公卿以下に殿前に入らせて、自由に閲覧させた。開元6年(718年)、玄宗が長安に帰ると、無量は麗正殿の書籍の整理が行われた。皇太子李瑛や郯王李嗣直ら5人のために、無量は『論語』・『孝経』を5冊ずつ書写して献上した。玄宗が経書に明るい篤行の士を選ぶよう命じると、無量は郄恒通・郭謙光・潘元祚らを推薦して、皇太子や郯王以下の諸王の侍読とした。開元7年(719年)、皇太子が国子監に就学する礼がおこなわれると、無量は座に登って経書を講義した。開元8年(720年)、無量は病没した。享年は75。礼部尚書の位を追贈された。は文といった[7][8]

脚注

  1. ^ 旧唐書 1975, p. 3164.
  2. ^ 新唐書 1975, p. 5687.
  3. ^ 旧唐書 1975, pp. 3164–3166.
  4. ^ 新唐書 1975, p. 5687-5688.
  5. ^ 旧唐書 1975, pp. 3166–3167.
  6. ^ 新唐書 1975, p. 5688.
  7. ^ 旧唐書 1975, pp. 3167–3168.
  8. ^ 新唐書 1975, p. 5689.

伝記資料

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  褚無量のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「褚無量」の関連用語

1
2% |||||

2
2% |||||

褚無量のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



褚無量のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの褚無量 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS