蛭川氏について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 14:16 UTC 版)
高家は児玉郡栗崎を南下して、蛭川(現在の児玉町蛭川)に移住し、蛭川氏の祖となった(児玉町蛭川東廓に館があったと推定されている)。『武蔵七党系図』には、家弘の子、庄刑部亟高家の名で記載されている(刑部は蛭川氏に見られる通称)。高家の子息は、系図には、蛭川太郎定家、蛭川四郎家国などとある。また、『吾妻鑑』にも蛭川刑部極、蛭川刑部三郎など、一族の名が見える。 高家の孫の代になると、蛭川氏から今井氏が派生する事となる。 高家自身は庄氏を名乗っているが、その子孫は、蛭川氏や庄氏を名乗り、必ずしも氏は一定していなかった。児玉時国の子孫の伝承が正しければ、児玉氏を名乗りなおした者もいたと考えられる。
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