藤川の成立と中世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 08:15 UTC 版)
戦国時代に行われた豊臣秀吉と島津氏の争いである九州平定により、大口から川内に至る通路上にあった東郷は豊臣秀吉の軍によって荒らされ、藤川天神の社殿や神宝、文書が焼失している。これにより藤川天神の由来は不詳とされている。 藤川という地名自体は戦国時代末期頃から近世の初頭までの間に作成されたとされる「出水公方向用途支配注文」に「藤河分六町 一貫文」と見えるのが初見であるとされる。東郷一帯を治めていた東郷氏が文禄年間に断絶し、その後は島津忠長が藤川を含む東郷十か村を領した。
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