蔣舒
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蔣舒は武興督であったが職責に見合う働きがなく、蜀では人をやって彼と交代させ、蔣舒を(現地に)残して漢中防衛に協力させた。蔣舒はそのことで恨みを抱いた《姜維伝》。 景耀六年(二六三)、魏の鎮西将軍鍾会が漢中に侵入して漢城・楽城を包囲するとともに、護軍胡烈を陽安関に向かわせた《姜維伝》。関城は蔣舒と傅僉とが固めていた《姜維伝》。 蔣舒は城を出て投降するつもりで「いま賊軍が来攻したのに、攻撃もせず籠城するのは良計ではない」と言ったが、傅僉が「ご命令を遵守して城を守ることこそ手柄になる。いま命令に背いて出撃し、もし軍勢を失って国家に損失を与えたなら死んでも無益だぞ」と反対した。蔣舒は言った。「子(あなた)は籠城して万全を守るのが手柄だという。我は出撃して敵軍に勝つのが手柄だと思っている。おのおのの意志を貫こうではないか」《姜維伝》 こうして蔣舒は軍勢を率いて城を出たが、陰平まで行ったところで胡烈に投降した。傅僉は彼が敵軍と戦うつもりだと思い込んでいたが、胡烈がその不意を突いて関城に襲いかかったので、傅僉は格闘のすえ討死し、関城は陥落した《姜維伝》。 鍾会軍は東北方面から進攻していたのだから、蔣舒が関城の西にある陰平に向かうのはおかしい。 【参照】胡烈 / 鍾会 / 傅僉 / 陰平道 / 漢中郡 / 魏 / 蜀 / 成固県(楽城) / 武興 / 沔陽県(漢城) / 陽安関(関城) / 護軍 / 鎮西将軍 / 督 |
蔣舒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/11 07:22 UTC 版)
蔣 舒[1](しょう じょ 生没年不詳)は、中国三国時代の武将。蜀(蜀漢)に仕え、魏軍来襲時に城を開いて降伏し、蜀漢の滅亡を招く一因となった。
経歴
魏軍侵攻より以前は、漢中の武興督の任に当たっていた。しかし仕事に当たって目立った働きがなかったため、その任をほかの人に命じて交代させ、そのまま蔣舒を留め置き、漢中太守を助けさせた。蔣舒はこのことで恨みを持った。
炎興元年(263年)、魏の鍾会が大軍を率いて蜀に侵攻して来た。鍾会は漢・楽の二城を包囲し、自ら楽城を攻める一方、胡烈を進軍させて陽安関に進行させた。蔣舒と一緒に陽安関を守っていた傅僉は城を固守するつもりであったが、蔣舒は傅僉を欺いて軍勢を率いて出撃し、胡烈に降伏した。この機に乗じて魏軍は虚を突いて城を襲撃し陥落させ、傅僉は戦死した。陽安関が陥落したことにより、魏軍は深く蜀の地に侵入することとなった。
魏に降ってからの事跡は伝わっていない。
脚注
- ^ 蒋舒と表記されることも多い。
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