菊一文字則宗の起源
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/10 07:26 UTC 版)
後鳥羽上皇は諸国の名刀工を招いて輪番制の御番鍛冶として召し抱えて刀を鍛えさせ、自らも焼刃をしたと伝えられる。これらの刀は後鳥羽上皇が定めた皇位の紋である16弁の菊紋の銘が入れられていた。これらの刀は御番鍛冶の出身流派から一文字派の特徴を持つ刀が多かったため菊一文字と称されるようになった。則宗は御番鍛冶の筆頭であった。 ただしあくまで称されたのであって、「菊一文字」と言う銘の刀は存在しない。また則宗の刀を含んだ鎌倉期の刀の中に菊と「一」の銘が並べられて彫られたものは現存しない。現存する菊と「一」の銘が並べられて彫られた刀は江戸時代の刀工の作のものであり、備前国一文字派の作にも菊花紋を毛彫りをしたものがまれにあるが、これらの銘は菊一文字ではないし一般的には菊一文字とも称されない。
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