舒仲応
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建安二年(一九七)、袁術は軍勢が少なくなり大将橋蕤らも失ったので、人々の気持ちは彼から離叛していった。そのうえ日照りのため飢饉となり、官吏・民衆は飢え凍え、長江・淮水の一帯では人々が互いの肉を食らい合う有様だった。舒仲応は袁術のもとで沛国相を務めていたが、袁術が米十万斛を軍糧に供与するよう求めると、舒仲応は米を一粒残らず飢えた民衆にばらまいてしまった《後漢書袁術伝》。 袁術はそれを聞いて怒り、軍勢を連ねて彼を斬ろうとした。舒仲応は言った。「死を逃れられないことは分かっていた。だからそうしたんだ。一人の命をもって百姓の塗炭の苦しみを救えるなら本望だ」。袁術は馬から飛び降りて彼の手を取り、「仲応よ、足下(あなた)は天下の名声を一人占めして、吾(わたし)と分かち合おうとはしてくれないのかね?」と言った。袁術は名声を自負していたが、それでも彼のことを立派だと思ったのである《後漢書袁術伝》。 |
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