舒邵とは? わかりやすく解説

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舒邵Shu Shao

ジョショウ
ジヨセウ

(?~?)
阜陵

字は仲膺。陳留郡の人。舒伯膺の弟、舒燮の父《孫賁伝》。

舒仲応舒仲應)と同人思われるものの、官名食い違い見られるため項を分けた

兄舒伯膺の親友殺害されたので、舒邵が報復した事件発覚する兄弟がかばい合い自分死刑になろうとしたが、二人とも赦免された。天下人々はそれを義挙だとし、美談として語った。舒邵はまた国家のために尽力したいかねがね思っていた。袁術時代、舒邵は阜陵県長になった孫賁伝》。

参照袁術 / 舒燮 / 舒伯膺 / 陳留郡 / 阜陵県 / 県長


舒邵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/07 09:14 UTC 版)

舒 邵(じょ しょう、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の政治家。兗州陳留郡の人。字は『三国志』呉志孫賁伝によれば仲膺、『後漢書袁術伝によれば仲応。兄は舒伯膺(名は不明)。子は舒燮。

事跡

姓名 舒邵
時代 後漢時代
生没年 〔不詳〕
字・別号 仲膺または仲応(字)
本貫・出身地等 兗州陳留郡
職官 阜陵県長→沛国相
爵位・号等 -
陣営・所属等 袁術
家族・一族 兄:舒伯膺 子:舒燮

袁術の配下。『三国志』呉志孫賁伝によれば、兄の舒伯膺の親友が殺された際に、舒邵がその仇を討った。その後、兄弟で罪を庇い合ったため2人とも赦された。これにより、天下にその名声が響き渡ったという。舒邵は、袁術の下で阜陵県長に任命された。

『後漢書』袁術伝では、「舒仲応」として登場する。可能性としては舒邵と別人ということもあり得るが、本記事では舒邵と同一人物として扱う。舒邵は、袁術から沛国相に任命されている。袁術は穀物10万斗を兵糧としていたが、舒邵はそれを尽く飢えた民衆に分け与えた。それを知った袁術は、舒邵を処刑しようとしたが、舒邵は「死は覚悟していました。私一人の命で、民衆の塗炭の苦しみが救われるならそれでも良い」と言い放った。それを聞いた袁術は「なぜお前一人で、天下の名声を独り占めしようとするのか」と返したという。結局この後、舒邵が赦されたか、処刑されたかは不明である。

その子である舒燮は、において零陵郡重安県長となっている。潘濬に法に照らし合わせて処刑されかけた事があったが、孫鄰が舒邵・舒伯膺兄弟の事を持ち出して諭した為、処刑は取り止めとなり命を長らえている。

小説『三国志演義』には登場しない。

参考文献



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