肉山脯林とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > デジタル大辞泉 > 肉山脯林の意味・解説 

にくざん‐ほりん【肉山×脯林】

読み方:にくざんほりん

《「帝王世紀」の「夏桀(かけつ)は肉山脯林を為し、殷紂は酒池肉林為す」から》生肉の山と干し肉宴席などのぜいたくきわまるようすのたとえ。酒池肉林


(肉山脯林 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/06 17:22 UTC 版)

第17代帝
中央の戟を持った人物が桀
王朝
都城 斟鄩
姓・諱 夏后履癸
生年 不詳
没年 不詳
陵墓 殽南陵

(けつ、ピン音:Jié)は、の最後の帝。名は履癸。『史記』などにあるように、一般には帝桀の父は帝とされているが、一説には帝の子ともされる。

生涯

竹書紀年』によれば、斟鄩に都した。

孔甲以来、諸侯はから離反しつつあったが、桀はで統治をするのでなく武力で諸侯や民衆を押さえつけたので、諸侯や民衆に憎まれた。有施氏を討った際に末喜という美女を捕らえ、自らの妃としたが、桀は末喜に溺れ、政治を省みなくなった。酒の池に船を浮かべて肉山脯林(にくざんほりん)[注釈 1]と呼ばれる肉を山のように盛る豪華な宴会を催し、国力は衰えた。そしてを呼びつけ、夏台にて牢獄につなげた。湯は許されて解放されると徳を修めたので、諸侯がその下に集まり、ついに桀は倒された。桀は鳴条(現在の山西省運城市夏県)に逃げたが、「吾悔不遂殺湯於夏台使至此(湯を夏台で殺さなかったばかりにこんなことにまでなってしまったのが悔しい)」と言い放ち死んだ(鳴条の戦い)。一説によると、末喜とともに南方に逃げて死んだという。

後世、殷の帝辛(紂王)、厲王と並び称される暴君の代名詞となった。

岷山を討った時に琬・琰という2人の女性を手にいれ、とても愛したが、子供ができなかったので苕華の玉に2人の名を刻んだ。苕には琬の名を、華には琰の名を刻んだ。

脚注

注釈

  1. ^ 殷の紂王の酒池肉林と並ぶ亡国の宴会。

出典



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「肉山脯林」の関連用語

肉山脯林のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



肉山脯林のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの桀 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS