織田仕官 - 晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 00:02 UTC 版)
天正6年(1578年)11月の有岡城の戦いには織田信忠麾下として参加。天正8年(1580年)閏3月には安土(現・近江八幡市安土町)に屋敷地を与えられているので信長の馬廻になったと見られる。 天正10年(1582年)6月に本能寺の変で信長が死ぬと羽柴秀吉に仕え、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参陣。兄と共に要所である二重堀砦を守備し度々徳川軍と小競り合いがあったが、羽柴信吉ら中入り部隊の敗走が伝わると徳川軍の猛攻を受けるも奮戦し、多くの死傷者を出しながら守りきった。 天正13年(1585年)7月の四国攻めにも従軍。羽柴秀次の元で参加し阿波の脇城を攻略する活躍をしていたが、同年8月5日に死去。弥太郎という子がいたが、元亀3年(1572年)に父に先立ち18歳で死去しており、盛就の家系は断絶している。
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