総主教座の剥奪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 20:31 UTC 版)
「ニーコン (モスクワ総主教)」の記事における「総主教座の剥奪」の解説
ツァーリ・アレクセイと教会は1666年、大規模な教会会議を開き、同年12月に、正式にニーコンの総主教座を剥奪した。その後、彼はベローゼロの修道院に送られることになる。あるいはヴォログダのフェラポントフ修道院とも言われる。1667年にはアンティオキアやアレクサンドリアの総主教が招かれ、奉神礼改革が公式に承認された。これを認めない者に対しては、破門することが宣言された。この後、二本指で十字を画く者は、正教会から分離派(ラスコーリニキ)と呼ばれるようになる。分離派(古儀式派)による抵抗と教会当局者への敵視、ツァーリ政府による古儀式派への弾圧が続いていく。 ニーコンは1681年8月17日に死去する。
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