紀長田麻呂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 16:06 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動紀 長田麻呂(き の おさだまろ)は、平安時代初期の貴族。式部大輔・紀古麻呂の曾孫。相模介・紀稲手の子[1]。官位は従四位上・宮内大輔。勲等は勲七等。
経歴
平城朝の大同3年(808年)筑前守、次いで大宰少弐に任ぜられる(この時の位階は従五位下)。
弘仁3年(812年)玄蕃頭、弘仁4年(813年)治部少輔・治部大輔次いで宮内大輔と嵯峨朝初頭は京官を歴任。弘仁6年(815年)従五位上・備前介に叙任されると、弘仁10年(819年)正五位下、弘仁14年(823年)従四位下から従四位上に昇叙されるなど、嵯峨朝後半以降は順調に昇進を果たしている。
淳仁朝の天長2年(825年)6月9日卒去。享年71。最終官位は散位従四位上。
人物
史書を学んでいなかったが、ちょっとした技を多く身につけていた。清貧に満足し、名声や利益を追い求めることはなかった。いわゆる、青松の下必ず清風あり、といった清らかな雰囲気の人物であった[1]。
官歴
『日本後紀』による。
- 時期不詳:従五位下
- 大同3年(808年) 5月14日:筑前守。5月21日:大宰少弐
- 弘仁3年(812年) 正月12日:玄蕃頭
- 弘仁5年(814年) 7月1日:治部少輔。7月10日:治部大輔。9月7日:宮内大輔
- 弘仁6年(815年) 正月7日:従五位上。正月10日:備前介
- 弘仁10年(819年) 正月7日:正五位下
- 時期不詳:従四位下
- 弘仁14年(823年) 正月7日:従四位上
- 天長2年(825年) 6月9日:卒去(散位従四位上)
脚注
参考文献
固有名詞の分類
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