米子医学専門学校時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/25 03:05 UTC 版)
「米子医科大学 (旧制)」の記事における「米子医学専門学校時代」の解説
第二次世界大戦末期、政府は山陰地方への医学専門学校設置を計画していたが、300床程度の附属病院・8000坪の校地を地元が提供することが条件であった。1943年の鳥取地震で被害を受けた鳥取市に財政的余裕はなく、元軍医中将の斎藤干城市長を擁する米子市が医専誘致に成功した。 1945年3月27日: 勅令第131号により官立米子医学専門学校設置公布。修業年限4年。 1945年7月1日: 第1回入学式。 1946年6月1日: 財団法人米子病院を国に移管し、米子医学専門学校附属病院と改称。医専は男女共学となった。 1947年7月1日: 修業年限5年に延長 (文部省令第16号)。
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