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立花鑑任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/03 02:08 UTC 版)

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立花 鑑任
立花鑑任像(福厳寺蔵)
時代 江戸時代
生誕 天和3年1月7日1683年2月3日
死没 享保6年5月13日1721年6月7日
改名 幼名:大助、勝千代→鑑任、宗政、鑑春、鑑常、宗昌
戒名 霊明院殿常心法鑑大居士
墓所 霊明寺
官位 従四位下飛騨
筑後国柳河藩
氏族 立花氏
父母 父:立花鑑虎、母:本多康長の娘・真光院
正室:池田綱政の娘・春子
勝千代
養子:貞俶
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立花 鑑任(たちばな あきたか)は、筑後柳河藩の第4代藩主。

第3代藩主・立花鑑虎の次男。母は膳所藩主家一族本多康長の娘・真光院。正室は池田綱政の娘。(実名)は鑑任のほか、宗政(むねまさ、宗昌とも)、鑑春(あきはる)、鑑常(あきつね)を一時期名乗っていた。幼名は大助、勝千代。

生涯

天和3年1月7日1683年2月3日)、江戸にて生まれる。長兄が早世していたため、元禄9年(1696年)7月に父が隠居する家督を継いだ。翌元禄10年(1697年)、叔父の立花貞晟に5,000石を分与している。貞晟を信頼しており、江戸留守居役に貞晟の意見を仰ぐように指示を出している[1]。また同年、別業御茶屋集景亭が完成する。これは現在の立花邸御花の前身である。


元禄16年(1703年)、江戸大地震による普請手伝いを命じられた。その後も朝鮮通信使の警護役を勤めたほか、田尻惣馬を登用して柳河城の修築、石垣普請などで手腕を見せた。


享保6年5月13日1721年6月7日)、柳河にて39歳で死去。葬地は霊明寺。実子の勝千代が早死して嗣子なく末期養子清直(後の貞俶)が跡を継いだ。

官位履歴

偏諱を賜った家臣

以下は鑑任より一字拝領をうけた家臣。鑑任は先述のとおり諱を宗政、鑑春、鑑常、宗昌と名乗った時期がある。

鑑春時代

脚注

  1. ^ 「柳川市史別冊 図説立花家記」

参考文献

  • 『新訂寛政重修諸家譜・第2』続群書類従刊行会、昭和39年。
  • 「旧柳川藩志」(柳川・山門・三池教育会編、1957年)
  • 「柳川市史別冊 図説立花家記」(柳川市史編集委員会編集、2010年3月30日発行)


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