福長浅雄
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福長 浅雄(ふくなが あさお、1893年(明治26年)1月1日[1] - 1980年(昭和55年)8月[1])は、日本の航空黎明期の飛行士・航空機研究者。日本初の国産旅客機「天竜10号」を開発したことで知られる[2]。郷里に近い天竜川河口部の静岡県磐田郡掛塚町(現在の磐田市)に福長飛行機研究所(福長飛行機製作所)を設立。飛行場を附設し、将来の航空輸送事業を構想して飛行士の養成を行った。
生涯
生い立ち
静岡県長上郡飯田村三郎五郎新田[注釈 1](現在の浜松市中央区大塚町)において[2][1]、小作農の父・利七と母・さくの間に生まれる[1][注釈 2]。
少年時代より空への関心が高かったという[1]。飯田村立西大塚尋常小学校(後の浜松市立飯田小学校)を経て[4]、1906年(明治39年)に中ノ町高等小学校(後の浜松市立中ノ町小学校)を卒業[1][4]。兄の市松と松之進が勤めている製材所「天竜木材会社」に就職した[1]。3年後、福長兄弟は関西に出て、兵庫県川辺郡川西村(現在の川西市)に製材場を構えた[1](「父とともに」営んだともある[4][5])。当時、浅雄は16歳であった[1]。遠州地方では機械製材が定着していたのに対して、関西ではまだ鋸引きが主流であったといい[1]、ドイツ製の製材機械を導入した製材所は大いに成功したとされる[1]。また、福長兄弟は近所に住んでいた団琢磨の知遇を得た[1]。
空へ
1910年(明治43年)末、徳川好敏大尉が日本人初の飛行を行ったという報道に接し、また翌1911年(明治44年)に所沢陸軍飛行場が完成して徳川が飛行機を組み立てていると聞くと、浅雄は製材所を兄たちに任せ[4]、所沢の徳川のもとに「押しかけ」て無給の助手[4]にしてもらった[1]。
1916年(大正5年)に相羽有と玉井清太郎が創設した日本飛行学校へ第一期生として入学[4][注釈 3]。1917年(大正6年)にフランスから輸入したブレリオ型飛行機を購入して組み立て「天竜1号」と名付けたが、エンジンの力が弱く飛行できなかった[4]。同年12月、滋賀県の八日市飛行場では、アンザニー25馬力発動機を搭載し、コードロン式練習機を模倣した地上滑走練習機を制作している。1918年(大正7年)春、ちょうど買い手を探していた伊藤音次郎の伊藤式恵美2型・グレゴアシップ型45馬力を購入。この縁で伊藤音次郎の門下に入り、滑走練習などを重ねた[6]。その後同機により初飛行に成功したが、着陸に失敗して損壊している[4]。こうしたなかで浅雄は、航空機の製造や定期航空便の運航を事業にしたいと考えるようになる[1]。
1918年(大正7年)7月1日、浅雄は磐田郡掛塚町(後の磐田市掛塚町)天竜川の河原にて郷土訪問飛行を実施。風の強い中で午前午後と2回の飛行を見せ無事着陸した[7]。使用機は伊藤より購入した伊藤式恵美2型改め「天竜3号」。当時の『静岡民報』は、4万人の観衆が集まったと伝える[4]。
福長飛行機研究所(福長飛行機製作所)
1919年(大正8年)5月、浅雄は磐田郡掛塚町の天竜川左岸河川敷に「福長飛行機研究所」を設立[2]。約4.3平方kmの福長飛行場(滑走路500m[5])を付設した[2]。弟の四郎・五郎とともに航空機の製作事業にあたった[4][2](磐田市立図書館によれば、四郎・五郎が教官を務め、浅雄は飛行機の製作に専念したとある[2])。地元有力者の支援を取り付け[5][注釈 4]、1921年(大正10年)10月10日、研究所を会社組織として「株式会社福長飛行機製作所」を設立した[2]。また、将来の定期航空便運行を目指して飛行士の養成を始めた[1][4]。飛行練習生として根岸錦蔵、鳥居清次、今井小松らが集まった[1]。
1922年(大正11年)10月、6人乗り旅客機「天竜10号」を完成させた[1][4][2]。イタリア製エンジン(300馬力)を搭載した複葉機で[5]、最初の国産旅客機である[5]。天竜10号で旅客輸送事業を行うことを航空局に申請したが、旅客輸送に関する法律が未整備であったこともあり、認可されなかった[1][4]。1923年(大正12年)の関東大震災に際しては、福長の弟・四郎[注釈 5]が「天竜7号」を操縦し[5]、公文書・信書の伝達[5]や物資の輸送[2]などに活躍した。この1923年(大正12年)には帝国飛行協会より表彰されている[4]。
しかし、軍と協力関係にあった三菱重工業や中島飛行機と異なり、個人レベルの民間事業であった浅雄には、航空事業に必要な資金も続かなかった[1]。1928年(昭和3年)、天竜川の改修工事にともなって製作所は閉鎖され[2]、浜松市の三方ヶ原に移転して「浜松飛行機製作所」となる[5]。浜松飛行機製作所は第二次世界大戦終戦まで存続し、軍用機や新聞社機等の修理を行っていた[5]。
後半生
浅雄は航空事業から手を引いて会社経営に携わった[2]。後半生、浅雄は航空機事業について自ら語ることはなかったという[1]。1980年(昭和55年)死去[1]。
記念と顕彰
浅雄の没後、「福長浅雄顕彰委員会」が発足し、その業績の顕彰に当たっている[4]。
浜松市立飯田小学校はウェブサイトのヘッダーに「浜松市立飯田小学校は、日本初の旅客機「天竜10号」を製作した福長浅雄さんの母校です。」の文言を掲げる[10]。同校の正門前には、「日本最初の旅客機」と題した福長の顕彰碑(1981年、福長浅雄顕彰委員会建立)[11]や「天竜10号」のブロンズ製モニュメントがあり[4][11]、同校内「福長コーナー」には「天竜3号」のプロペラ実物[注釈 6]や模型などが展示されている[4]。
脚注
注釈
- ^ 長上郡は1896年(明治29年)に郡の再編によって消滅し、大部分は浜名郡となり、掛塚村は磐田郡に編入された。
- ^ 福長に関する著作のある泉秀樹によれば、飯田村は役場の火災によって戸籍原簿を焼失し、「戸籍係が自分の記憶をたよりに原簿をつくりなおし、確認をとらなかった」ということがあったため、戸籍の記載事項が正しいとは限らない。戸籍では、生年月日は明治26年(1893年)4月10日、出生地は静岡県浜名郡飯田村2番地、母は「八重」とあるが、これは全部誤りという[1]。また本人の名も戸籍上は「福長浅雄」であるが、実際には「福永朝雄」であったという[3][1]。
- ^ 作家の平木国夫が日本飛行学校校長の相羽有と第一期生の辻村泰作に直接確認したところによると、一期生たちと一緒に写った写真もあるが、浅雄は正規の入学者ではなく時々ふらりと顔を出しては親しく交わる聴講生ような存在であった。浅雄自身は入学したと話しているが、記憶違いであろうとしている[6]。
- ^ 福長飛行機製作所の社長には、名望家の長谷川鉄雄を迎えている[5]。長谷川鉄雄は、掛塚出身の長谷川貞雄(海軍主計総監・貴族院議員)の子で[8]、東京帝国大学工学部を卒業して複数の企業の重役を務める多額納税者であった[9]。浜松では私立誠心高等女学校(浜松開誠館中学校・高等学校の前身)の校主なども務めた[8]。
- ^ 福長四郎は1926年(大正15年)、飛行機の操縦中に事故死した[5]。
- ^ 「浜松情報BOOK」には「天竜10号」の実物プロペラとあるが[4]、同展示の写真では「天竜3号」のプロペラであることが示されている[12]。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 泉秀樹. “コラムその意気や、壮! 第5回 青空の扉を開いた男 飛行機と飛行場に賭けた福長浅雄”. 新風. TKC全国会. 2022年11月26日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k “福長浅雄”. 磐田の著名人. 磐田市立図書館. 2022年11月26日閲覧。
- ^ 平木国夫『空駆けた人たち:静岡県民間航空史』静岡産業能率研究所、1983年3月、7-8頁。NDLJP:12063013/14。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r “福長浅雄”. 浜松情報BOOK. 株式会社 浜名湖国際頭脳センター. 2022年11月26日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k “第四章>第二節>第二項>昭和期の工業>飛行機製作”. 浜松市史 三. 2022年11月26日閲覧。
- ^ a b 平木国夫『空駆けた人たち:静岡県民間航空史』静岡産業能率研究所、1983年3月、15-17頁。NDLJP:12063013/18。
- ^ 平木国夫『空駆けた人たち:静岡県民間航空史』静岡産業能率研究所、1983年3月、19-20頁。NDLJP:12063013/20。
- ^ a b “第四章>第五節>第二項>誠心高等女学校の創立>西遠高等女学校 誠心高等女学校”. 浜松市史 三. 2022年11月26日閲覧。
- ^ “長谷川鐵雄 (第8版[昭和3(1928)年7月]の情報)”. 『人事興信録』データベース. 2022年11月26日閲覧。
- ^ “学校の概要”. 浜松市立飯田小学校. 2022年11月26日閲覧。
- ^ a b “日本最初の旅客機”. 発祥の地コレクション. 2022年11月26日閲覧。
- ^ “天竜3号のプロペラ”. 福長浅雄伝 福長浅雄顕彰委員会. 2023年10月8日閲覧。
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