福昌寺の建立と隆興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 04:03 UTC 版)
南北両朝合後、禅宗に厚く帰依していた島津氏第七代当主の島津元久は、応永元年(1394年)長谷場氏の城跡に曹洞宗の寺院「玉竜山福昌寺」を建立した。福昌寺の造営のために多くの所領が寄進された。翌年の応永2年(1395年)に島津元久の寄進状によれば「鹿児島郡坂元村内池之上畠とあって、のちに田を埋めて宅地を作り、熊野権現を地内に迎祭した」と記されており、坂元村のうち池之上畠を寺領として福昌寺に寄進している。 清水城が現在の稲荷町に築城されると清水城の麓町が作られたのち、福昌寺の門前が作られ、そこから納屋(現在の東千石町付近)に向けて町が広がった。文明3年(1471年)には吉利(現在の日置市日吉町吉利)にあった深固院が福昌寺に移された。 天文18年(1549年)に鹿児島に上陸したキリスト教の宣教師フランシスコ・ザビエルは福昌寺を宿所としており、第十五代忍室文勝と宗教問答を行ったとされる。
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