破壊、再建、宗教改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/18 14:27 UTC 版)
「ブロムベルク」の記事における「破壊、再建、宗教改革」の解説
既述の防衛施設は、ゾーストのフェーデで完全に破壊されるまで、ブロムベルクを護っていた。1447年にケルン大司教がこの街を包囲した。6月14日、その兵士らによってこの街は完全に焼き払われた。 この街は、1468年からベルンハルト7世 (リッペ領主)(ドイツ語版、英語版)の庇護の下で再建された。この頃重要な事件が起こった。アルハイト・プステコーケという名前の女性がマルティーニ教会から45枚の奉納されたホスチアを盗み出した。彼女は発覚することを恐れ、ゼーリゲン・ヴィンケルの泉にこれを投げ入れた。しかしホスチアは沈まず、彼女は罪を認めさせられて、火刑に処せられた。泉が霊力をもつというニュースはすぐに広まり、ブロムベルクは巡礼地に発展していった。これにより、ヴァチカンにもこの知らせが届き、ローマの枢機卿はこの泉の上に礼拝堂を建設するよう奨励した。メレンベックのアウグスチノ修道参事会が 1468年に教会を寄進し、同時に修道院の建設許可を得た。教会は 1473年に後期ゴシック様式に改築され、現在は福音主義改革派の市教区教会となっている。寄進の収入は修道院教会が建設できるほどの額があり、この修道院教会は約 200年の間リッペ領主家およびリッペ伯の廟所として使われた。 カペルでの全部で 5回の領邦議会で、市と騎士会は 1538年に福音主義ルター派の教義に基づく教会法をリッペおよびブロムベルクに導入することを決定した。泉はその重要性を喪失し、忘れ去られた。1605年にもう一度宗教改革がなされた。領主のジーモン6世 (リッペ伯)(ドイツ語版、英語版)がリッペ伯領内の全市町村にジャン・カルヴァンの教えに基づく福音主義改革派の信仰を強いた。レムゴーだけはこれに抵抗し得たのだが、ブロムベルクはしぶしぶながらこれを受け容れた。
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