石川廉勝
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石川廉勝(本久寺所蔵)
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時代 | 江戸時代前期 |
生誕 | 慶長9年(1604年) |
死没 | 慶安3年7月8日(1650年8月5日) |
墓所 | 京都市本禅寺 |
官位 | 従五位下弾正大弼 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 近江膳所藩世嗣 |
氏族 | 石川氏 |
父母 | 父:石川忠総、母:堀尾吉晴の娘 |
兄弟 | 廉勝、総長、貞當、泰総、邦総、総氏、中川久清正室 |
妻 | 正室:堀尾忠晴の娘 |
子 | 憲之、石川総良正室、九鬼隆常正室 |
石川 廉勝(いしかわ かどかつ)は、江戸時代前期の近江国膳所藩の世嗣。官位は従五位下・弾正大弼。
略歴
石川忠総の長男として誕生。母は堀尾吉晴の娘。正室は堀尾忠晴の娘。
慶長14年(1609年)、父・忠総が石川家を相続したため、廉勝も石川家嫡子となる。 堀尾忠晴は、亡くなる直前に、祖父堀尾吉晴の孫で父方の従兄弟であり、なおかつ娘婿でもある廉勝(宗十郎)に男子が生まれたなら、実孫であるその子を堀尾家の後継にしたいと考えた。 忠晴は、すでに母方の従兄弟である堀尾泰長(三条西公紀)を養子にしていたが、宗十郎の末期養子(中継養子)を幕府に申し立てた。 しかしその嘆願は認められず、寛永10年(1633年)に死去、堀尾家は無嗣断絶、改易となったという。
寛永9年(1632年)に叙任するが、家督相続前の慶安3年(1650年)に没した。享年47。
代わって長男・憲之が嫡子となり忠総の後を継いだ。
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