白石山﨑家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 02:33 UTC 版)
旧香北町にも別系統の山崎家があった。もと攝津山崎の住人であったが、乱を避け土佐に入り、山田氏に仕えた。藤大夫祐明(?〜1536)の代に長宗我部氏に仕え岡豊八幡宮の下司となった。祐明には祐節という子があった。父の後を継ぎ、八幡宮神主の谷氏のあとに神主となった。韮生郷白石の轡(くつわ)城主であった萩野織部が元親の阿波出兵の命を拒み、元親配下の秦泉寺掃部に討ち取られた後に祐節がその城主となった。九郎五郎は阿波勝瑞の役で戦没し、伝兵衛は戸次川の合戦で討ち死にした。子の祐品の代に長宗我部家が滅亡して所領を失い、祐品の子九郎右衛門は山内氏に出仕し、白石村の名本(なもと)を命ぜられ、子孫は相次いでこの職を務めた。
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