異母弟基衡との争乱と最期とは? わかりやすく解説

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異母弟・基衡との争乱と最期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/18 09:58 UTC 版)

藤原惟常」の記事における「異母弟・基衡との争乱と最期」の解説

源師時日記長秋記』には、清衡死後の大治4年1129年)の出来事として、惟常と基衡との争乱記録されている。それによると、基衡は惟常の「国館」を攻め異母弟圧迫に耐えかねた惟常は小舟乗って子供含め二十余人引き連れて脱出し越後国落ち延びて基衡と対立する他の弟と反撃出ようとするが、基衡は陸路軍兵差し向け逆風受けて小舟出発地押し戻され所を惟常父子らを斬首したという。大治5年1130年6月8日のことである。 この争乱詳細は『長秋記』が記すのみで、平泉側(奥州藤原氏側)からの記録発見されていない。またこの内乱の背景には単なる兄弟間の家督争いだけでなく、清原氏の娘を母に持つ惟常を担ぐ家臣団と、安倍氏の娘を母に持つ基衡を担ぐ家臣団、この二つ勢力小競り合いがあったということ第一に考えられている。

※この「異母弟・基衡との争乱と最期」の解説は、「藤原惟常」の解説の一部です。
「異母弟・基衡との争乱と最期」を含む「藤原惟常」の記事については、「藤原惟常」の概要を参照ください。

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