異母弟・基衡との争乱と最期
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「藤原惟常」の記事における「異母弟・基衡との争乱と最期」の解説
源師時の日記『長秋記』には、清衡死後の大治4年(1129年)の出来事として、惟常と基衡との争乱が記録されている。それによると、基衡は惟常の「国館」を攻め、異母弟の圧迫に耐えかねた惟常は小舟に乗って子供を含め二十余人を引き連れて脱出し、越後国に落ち延びて基衡と対立する他の弟と反撃に出ようとするが、基衡は陸路軍兵を差し向け、逆風を受けて小舟が出発地に押し戻された所を惟常父子らを斬首したという。大治5年(1130年)6月8日のことである。 この争乱の詳細は『長秋記』が記すのみで、平泉側(奥州藤原氏側)からの記録は発見されていない。またこの内乱の背景には単なる兄弟間の家督争いだけでなく、清原氏の娘を母に持つ惟常を担ぐ家臣団と、安倍氏の娘を母に持つ基衡を担ぐ家臣団、この二つの勢力の小競り合いがあったということが第一に考えられている。
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