畑山氏のその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 03:12 UTC 版)
元氏の息子実忠(内蔵尉)は父に従い長宗我部家と戦っていたが、のちに野中三郎左衛門親孝の仲介で長宗我部元親に仕えた。しかし1589年、元親より安芸城北木戸で切腹を命じられた。 孫の実春(官途は右京介)も父実忠とともに切腹を命じられ、畑山館の戦いで討死した。 実春の子内蔵次丸(くらのすけつぎまる)は畑山館の戦い後竹林に逃れるも、竹崎木工左衛門に捕縛され謀殺された。 元氏の三男元康(通称左近尉、別名安芸長宗とも。 1557~1642)は兄実春の謀殺を受け、阿波国に落延びた。1600年、長宗我部盛親の改易処分後、土佐藩主山内一豊に仕えた。 元康の長男重房(通称忠左衛門。別名安芸忠左衛門)は当初羽柴秀長に仕え2,000石を領した。 1591年秀長が病没すると、山内一豊に仕え600石を領した。1610年元康の隠居に伴い家督を継ぐ。 重房の子は元経(通称次左衛門)、土佐藩士。 元康の次男は元利(通称孫之丞)。
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