理化学研究所サイクロトロンの一部に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 17:09 UTC 版)
「米村嘉一郎」の記事における「理化学研究所サイクロトロンの一部に」の解説
当時長波の送信機の一部に電弧発信器が使われていたが、長波から短波に移行し、1931年(昭和6年)原ノ町送信所が廃局になった時、理化学研究所に電磁石が寄贈され、仁科芳雄博士の指導の下にサイクロトロンの試作に利用された。たまたまこのサイクロトロンの設計には嘉一郎の娘婿の竹内耕造が参加していて、親子2代での原ノ町送信所の大磁石が仕事上つながったのは奇遇でもあると述べている。この時理化学研究所には2ヶの電磁石が送られたが、1ヶは改造の上、国内初めてのサイクロトロンとして完成したがこのサイクロトロンは太平洋戦争の空襲の際に焼け落ちて無くなっている。戦後復旧作業の中で再度もう一つの電磁石が使用されたサイクロトロンが理化学研究所で製作された。現在でもこの電磁石がサイクロトロンの記念碑として日本アイソトープ協会に保存されている。
※この「理化学研究所サイクロトロンの一部に」の解説は、「米村嘉一郎」の解説の一部です。
「理化学研究所サイクロトロンの一部に」を含む「米村嘉一郎」の記事については、「米村嘉一郎」の概要を参照ください。
- 理化学研究所サイクロトロンの一部にのページへのリンク