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王敏彤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/20 13:27 UTC 版)

王敏彤

全名 完顔童記
出生 1913年
直隷省順天府
(現:北京市
死去 2003年2月28日
中華人民共和国 北京市
家名 完顔氏
父親 立賢
母親 愛新覚羅恒慧
宗教 チベット仏教
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王敏彤(おう びんとう、1913年 - 2003年2月28日)は20世紀の満洲貴族の女性。金王朝宗室の末裔である完顔氏出身。満洲鑲黄旗満洲国皇后婉容の再従妹(両者とも乾隆帝第一皇子永璜の五世孫である定慎郡王溥煦の孫娘を母に持つため)。 その美貌と、溥儀への狂気じみた愛情により名を残している。

京劇を披露する王敏彤

生涯

出生時の名は童記。彼女の父は完顔立賢で、人々から「立五爺」と呼ばれていたため、彼女も「立童記」と呼ばれた[1]。したがって「完顔立童記」という呼称は誤りであり、「立童記」か「完顔童記」と呼ぶのが正しく、「完顔立童記」という呼び方は存在しない。

立童記の幼少期については、彼女の妹である王涵が自叙伝の中で次のように描写している。

「父が病気で治療の甲斐なく亡くなった後、母は別に家を借りて彼を療養させることにし、私と姉を連れて外祖母の家に寄寓させた。そうした家庭では、子供、特に女の子に対して礼儀作法を過度に求めるものであった。姉はいつも長輩(同世代だが年上の同族の親戚)たちから寵愛され、常に母に付き従い、食事も大人たちと同じ席でしていた。というのも、姉は従順で、しかも肌が白く美しかったからである。しかし私は黄色い髪をした小娘で、裏庭で一人で食事をし、普段は客人の前に出してもらえなかった。礼儀作法を誤って笑われるのを恐れられていたからである。ただし誕生日や祝日などの時だけ、きれいに着飾らされて人前に出されるのであった。」

厳しく躾けられながらも幸せな子供時代を過ごした姉妹は、時局の影響により、外祖母(貝勒毓朗の福晋)や母と共に天津・北京の両地を行き来して暮らしていた。

立童記は又従姉の婉容と溥儀の結婚以来、溥儀に夢中になり、以降、人生の大半を彼の愛情を勝ち取ろうと費やした。

立童記が17歳のとき、天津に住んでいた彼女は母の命に従い、家柄が釣り合うある愛新覚羅氏の人物と婚約した。しかし、相手がある女優と関係を持ったことが広く世間に知れ渡り、大きな騒動となったため、婚約は解消され、彼女は北京東四三条27号の祖宅に戻って暮らすことになった。 この時、立童記は結婚を中止させようと、母親に「婚約を破棄しないなら首を吊る」と言ったと伝えられている[2]

またその頃、当時を代表する京劇女優孟小冬の家と完颜家は塀一つ隔てた隣同士で、孟家は26号、完颜家は27号に住んでいた。青春期の孟小冬と、北京に戻ってきた立童記姉妹は親しい閨中の友となった。残された孟小冬の旗装姿の写真と、完颜童記の戯装姿の写真は、当時の姉妹のような深い友情を物語っている。孟小冬の情人であった梅蘭芳もまた立童記と親しく、「小さな大格格」と冗談交じりに呼んでいた。

1937年、溥儀の弟であり、最初の妃唐石霞と離縁した溥傑が妻を探していると発表された。溥傑に近い筋によると、立童記が溥傑の第一希望だったが、当時満洲国を統治していた関東軍が溥傑に嵯峨侯爵家の令嬢嵯峨浩を紹介したため、二人は結婚することはなかった

1952年に撫順の政治犯収容所(撫順戦犯管理所)に収容されていた溥儀が恩赦を受け釈放されると、彼女は彼を自宅に招いた。彼に手料理を見せた際、溥儀は酔った勢いで「こんなに良い女性が結婚しないなんて、どうしてだろう?きっと良き妻、良き母親になれるだろうに」と冗談を言ったが[3]、もはや彼には没落した満洲貴族女性と結婚するつもりなど毛頭なかった。

溥儀は後に1962年に李淑賢と再婚したが、これが彼女の精神状態を悪化させる一因となった。彼女は溥儀に愛を告白しながら走っている姿が目撃され、少なくとも1967年に溥儀が亡くなるまで彼に執着し続けた[4]

文化大革命の際、彼女の家は接収され、母親と小さな家に移ることを余儀なくされ、月300にも満たない生活を送ることになったが、高貴な生まれとしてのプライドを捨てることはなく、祖先から伝わった乾隆年間の磁器花瓶を頑として売らず、80万元の値を付ける人がいても、100万元でなければ駄目だと言った。しかし、その後彼女は理由は分からないが、その貴重な花瓶を台湾の親戚の女性に譲り、一銭も受け取らなかった。おそらく祖伝の宝を売るのは本心から忍びなく、その親戚の女性に託したのだろうと考えられている。その親戚の女性はとても良い人で、彼女によく尽くし、とても心を砕いて世話をしていて、何とか説得し、小さな家を出て養老院に入るようにさせ、費用も負担した。今回は彼女も素直に従い、特に未練もなかったので、北京のある養老院に入った。

養老院の環境はとても良く、食事も住まいも整い、入浴もでき、彼女の生活は一気に良くなった。ところが、彼女は養老院に入って1か月も経たないうちに餃子を食べていて、喉に詰まらせて窒息死してしまい、親戚の女性を悔やませた[2][5]

祖先・親族関係

王敏彤の系譜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. 麟慶
 
 
 
 
 
 
 
8. 崇厚
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. 程孟梅
 
 
 
 
 
 
 
4. 衡平
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. 蒋遠之
 
 
 
 
 
 
 
9. 蒋重申
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2. 立賢
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20. 廣源
 
 
 
 
 
 
 
10. 昇福
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
21. 蒋氏
 
 
 
 
 
 
 
5. 他他拉氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1. 王敏彤
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. 輔国将軍載銘
 
 
 
 
 
 
 
12. 定慎郡王溥煦
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
25. 林氏 (林慶禄の娘)
 
 
 
 
 
 
 
6. 敏達貝勒毓朗
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26. 鄂佳慶雲
 
 
 
 
 
 
 
13. 側福晋鄂佳氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3. 愛新覚羅恒慧
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
28. 英桂
 
 
 
 
 
 
 
14. 崇齢
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7. 嫡福晋赫舍里氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  • 3の愛新覚羅恒慧は婉容皇后の継母・愛新覚羅羅恒香の同母姉で、婉容の生母の従姉妹。
  • 16の麟慶の母である惲珠は代を代表する著名な女流詩人であり、江蘇省常州武進において科挙文学絵画漢方医学において興盛を誇った名門世族であり、同族に惲寿平などがいる毗陵惲氏出身。また、麟慶の祖母である索綽羅氏は乾隆帝の妃嬪瑞貴人の従姉妹で、同族に咸豊帝の妃嬪婉貴妃がいる。
  • 18の蒋遠之と21の蒋氏は兄妹であり、蒋遠之は同治帝の妃嬪淑慎皇貴妃の外祖父。
  • 20の廣源の母尚佳氏は、道光帝の妃嬪豫嬪の父である尚如慶の姉妹で、同治帝の妃嬪淑慎皇貴妃の曾祖伯母(曾祖母の姉)。また、廣源の父方の祖母愛新覚羅氏は太祖ヌルハチ第七子アバタイの第四子ヨロの曾孫。
  • 24の輔国将軍載銘は乾隆帝第一皇子永璜の曾孫。載銘の父奕純の生母継福晋伊爾根覚羅氏は康煕帝第十三皇子怡賢親王胤祥の外孫で、更にその父方の祖父である伊都立は母の烏雲珠を通じて、康煕帝の皇后孝誠仁皇后の叔父ソンゴトゥの外孫。
  • また、王敏彤自身は金の世宗の直系28世孫にあたる。

出典




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