愛新覚羅毓朗
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愛新覚羅 毓朗(あいしんかくら いくろう、満州語:ᠶᡡ
ᠯᠠᠩ、転写:Aisin-gioro Yū Lang、、同治3年7月26日(1864年8月27日) - 民国11年10月26日(1922年12月14日))は清朝末期の皇族。字は月華、号は余痴。清朝の宗室大臣であり、乾隆帝の六世孫、定安親王永璜の五世孫、定慎郡王溥煦の次子である。
生涯
多羅敏達貝勒・毓朗は、定慎郡王・溥煦の次子であり、同治3年(1864年)7月26日未の刻に生まれた。母は六品典衛慶雲の娘である側福晋鄂佳氏。
光緒2年(1876年)12月、花翎(二品の頂戴)を賜る。
光緒12年(1886年)12月、三等鎮国将軍に封ぜられる。
光緒28年(1902年)7月、鴻臚寺少卿に任命される。
光緒30年(1904年)9月、光禄寺卿に任命される。
光緒31年(1905年)3月、内閣学士兼礼部侍郎の官職を授けられ、同年9月、巡警部左侍郎に任命される。
光緒33年(1907年)12月、多羅貝勒を襲封する。
光緒34年(1908年)11月、上諭を奉じて「朕、大統を承け、登極の礼を成すにあたり、すでに皇太后の徽号を恭しく奉り、盛典は規模にかなった。恩沢を広く施すため、多羅貝勒毓朗に双俸を与え、さらに禁衛軍訓練を専司する大臣に任ずる」と命じられる。翌12月、この職務に正式に任ぜられる。
宣統元年(1909年)9月、貝勒爵章を下賜される。
民国元年(1912年)9月、懿旨を奉じ、「従前に恩賞を受けた王公等の邸宅・部屋・土地は、すべて恩恵を加えて私産として与える」とされた。
民国2年(1913年)12月、宗人府右宗人を署理する。
民国4年(1915年)正月、勅命により「宗人府をはじめ各衙門の文武官が勤勉に職務を果たしているので、みな一階級加増せよ」とされ、同月、宗人府右宗人に任命される。2月には宗人府左宗人を署理し、12月には宗人府右宗正に任じられる。
民国6年(1917年)正月、宗人府左宗正に任じられる。
民国10年(1921年)2月、勅命を奉じ、「時局困難にして財力乏しく、繁雑を削除して実を期すべし」との旨により、かつて王大臣を派遣し内務府各衙門の状況を視察させ、経費削減のために統合・裁減を計画したことを踏まえ、さらに整理を命じられた。そのため、那彦図・載澤・溥倫・載潤・載濤・毓朗・載瀛・世続・陳宝琛・伊克坦・朱益藩・紹英・耆齢らが精心して協議し、折に触れて奏上するよう命じられた。
民国11年(1922年)閏5月、勅命を奉じ、玉牒の編纂が完成し、迅速にして妥当に仕上げられたことを称え、宗令らに賞与を加えるよう命じられた。さらに恩賞として、載涛の子・溥伸に頭品頂戴を授け、載潤・毓朗・載瀛には四行龍補服の着用を許した。同年10月26日、毓朗は薨逝、享年59歳。諡号は「敏達」とされた[1]。
家族
兄弟
- 長兄:毓長 - 9人の子をもうける。そのうち第四女は皇后婉容の母。
- 三弟:毓辰 - 早世。
- 四弟:毓盈 - 字は「損之」。子は一人、恆蘭(字は「如馨」、現名「恆如馨」)。
妻妾
正室
- 嫡夫人:赫舍里氏 (英桂の孫女)
側室
- 妾:李靜塵
- 妾:紀清安
息子
- 第一子:恆堯 - 光緒11年(1885年)乙酉9月14日戊の刻に生まれ、光緒12年(1886年)丙戌4月20日酉の刻に亡くなる。嫡夫人赫舍里(ヘシェリ)氏の所生。
- 第二子:恆馞 - 字は「次馨」、号は「墨波」。光緒32年(1906年)丙午12月4日申の刻に生まれる。第一妾李静塵の所生。子は一人、啓星。啓星は左繼英を娶り、三人の娘(金輝・金碩・金宇)をもうけた。
娘
- 第一女:恆慧 - 字は「伯馨」。嫡夫人赫舍里氏の所生。2人の娘をもうける。
- 長女:完顏童記(または「立童記」、のちに「王敏彤」)
- 次女:完顏碧琳(現名「王涵」)
- 第二女:恆香 - 字は「仲馨」、号は「竹香」、現名は「金仲馨」。嫡夫人赫舍里氏の所生。皇后婉容の父榮源の第4夫人であり、宣統帝の義弟潤麒の母。
- 第三女:恆芬 - 字は「叔馨」。嫡夫人赫舍里氏の所生。
- 第四女 - 名をつけられる前に夭折。嫡夫人赫舍里氏の所生。
- 第五女:恆馥 - 字は「季馨」。嫡夫人赫舍里氏の所生。
- 第六女 - 名号不詳。第一妾李静塵の所生。20代の頃、肺結核で死去。
- 第七女:馨遠 - 第二妾紀清安の所生。
出典
- ^ 「愛新覚羅宗譜」愛新覚羅常林主編
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