牛頭天王社の宮座方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 22:56 UTC 版)
また馬部は、普賢寺谷では明治時代の流出以前から椿井文書が広く定着していたと認めざるを得ないとしたうえで、普賢寺谷の一連の椿井文書がどのような要望にもとづいて作成されたについて、普賢寺谷10ヶ村の氏神である牛頭天王社の祭祀において、近世中期以降「侍中」と「宮座方」の対立が強まり、「宮座方」からの突き上げに対して、結束を固めて対抗する必要に迫られた侍衆は、富豪を由緒ある土豪に仕立て上げ、中世以来幾度となく結束して困難に立ち向かってきた普賢寺谷の侍衆を、ことさらに主張する積極的な理由が認められるとし、そしてそれが草莽隊の由緒へと活用されたのであろう、と指摘している。さらに彼らが南山郷士として認められる際に「南山雲錦拾要」という椿井文書が用いられたことから、「富農の身分上昇に応じて創作された椿井文書は、最終的にその機能を全うしたと言えよう」と指摘している。
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