牛込若松町への転居
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 14:05 UTC 版)
1919年(大正8年)秋には足尾銅山に労働争議が起こり、坑夫の家族が大挙して西ケ原の本邸に押しかけ、直訴するという事件があった。虎之助はこれに対し「惻隠の情」が起こったと述懐している。(「古河虎之助伝」)さらに、1921年(大正10年)には養子・市太郎が急死したことをきっかけに、信仰に入る(詳細不詳)。関東大震災における救済事業もその信仰心の発露であった。こうした心境の変化により、1926年(大正15年)、虎之助は贅沢な西ケ原の屋敷から質素な牛込若松町に転居したのである。以後、西ケ原邸は、会社経営の内外商客接待のための迎賓館とされた。
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