片山光生とは? わかりやすく解説

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片山光生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/17 13:29 UTC 版)

片山光生
生誕 1918年(大正7年)9月27日
岡山県岡山市
死没 (1985-08-16) 1985年8月16日(66歳没)
京都
国籍 日本
出身校 京都帝国大学工学部建築学科
職業 建築家
所属 建設省(-1973年)→株式会社内藤建築事務所(1973-1983年)→株式会社グリーン・アーキ研究所 設立(1983-1985年)
建築物 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場(旧国立競技場)
奈良県庁舎奈良県庁
奈良県立美術館
奈良県文化会館 ※基本
関西労災病院
大阪労災病院

片山 光生(かたやま てるお、1918年(大正7年)9月27日 - 1985年(昭和60年)8月16日)は、日本建築家。官庁営繕と民間の建築家として活躍。建設省近畿地方建築局時代の奈良県庁舎が代表作。

経歴

名古屋市生まれ[1]。愛知県立第五中学校、奈良中学校、旧制第六高等学校(岡山)を経て、1943年京都帝国大学工学部卒業。海軍に入り、高知で終戦を迎える。

1946年以降、運輸技官、建設技官として高松、大阪に赴任。1956年以降、建設省近畿地方建設局(課長職)、関東地方建設局(同)、中国地方建設局(部長職)を経て、1969年、建設大臣官房庁舎営繕部建築課長。

1973年に退官し、京都の内藤建築事務所[2]の代表取締役社長に就任。1983年、同社を退社、グリーン・アーキ研究所代表取締役社長。1985年逝去。

国立競技場のエピソード

  • 近畿地方建設局の在職中、出向で国立霞ヶ丘競技場陸上競技場(旧国立競技場)の設計チームに加わる。チーフの角田栄は元近畿地建建築課長で、片山は当時の部下だった[3]。2人とも京大出身である[4]。「東大出の連中はセオリーに頼り、創造性がない」という角田栄チーフの意向により、設計チームが形成されたといわれる。
  • 国立競技場の聖火台のデザインに悩んでいた頃のこと。残業帰りに片山は同僚たちと行きつけのトリスバーへ入った。トリスのグラスを何気なく眺めていた片山が「これだ。これでいこう」と物にとりつかれたように叫んだ。ここから聖火台のデザインが決まったという[5]

作品

参考文献

  • 『片山光生-その創造』[6] 1985年12月20日発行、みくに書房
  • 『物語・建設省営繕史の群像<中>』 1988年6月発行、日刊建設通信新社、田中孝 ISBN 978-4930738059

脚注

  1. ^ 以下の経歴は主に『片山光生-その創造』p59「略歴」による。
  2. ^ 内藤建築事務所は京都帝国大学建築学科出身の内藤資忠(1903年-1985年)が創業。1973年に会長職。公式サイト[1]
  3. ^ 『物語・建設省営繕史の群像<中>』 日刊建設通信新社、田中孝
  4. ^ 「メディアが伝えない新国立問題」連載3 岡邦行日刊ゲンダイ、2015年8月)
  5. ^ 『片山光生ーその創造』p53。
  6. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション(ログイン必要)[2]



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