瀬越村とは? わかりやすく解説

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瀬越村

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/22 08:11 UTC 版)

せごえむら
瀬越村
廃止日 1954年3月10日
廃止理由 編入合併
瀬越村大聖寺町
現在の自治体 加賀市
廃止時点のデータ
日本
地方 中部地方北陸地方
都道府県 石川県
江沼郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
総人口 371
国勢調査1950年
隣接自治体 大聖寺町、塩屋村三木村
瀬越村役場
所在地 石川県江沼郡瀬越村
座標 北緯36度17分49秒 東経136度15分43秒 / 北緯36.29683度 東経136.26203度 / 36.29683; 136.26203座標: 北緯36度17分49秒 東経136度15分43秒 / 北緯36.29683度 東経136.26203度 / 36.29683; 136.26203
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瀬越村(せごえむら)は石川県江沼郡にあった。現在の加賀市大聖寺瀬越町(一時は吉崎町も含む)にあたる。戦前期までは北前船の船主・大家家、広海家の邸宅があり、加賀橋立とともに『日本一の富豪村』と称された[1]

地理

歴史

広海二三郎

北前船の巨頭の大部分は瀬越村と橋立村にあり、両村とも日本有数の富裕な村だった[2]。瀬越の船主には、広海(ひろみ)、大家(おおいえ)、角谷、浜中等があった[2]。広海家は1820年頃、2代当主・広海二三郎が北前船による廻漕問屋を始め、大聖寺藩の御用を承る代々船主となった[2]明治維新後の近代化により多くの船主が廃れていくなか、5代広海二三郎と大家七平(二三郎の弟)は産業革命の波に乗って大成した[2]

5代広海二三郎(1854-1929)は1869年から北前船に乗り込んで5年間修業し、航海術や船の管理機構のほか、商売について習得した[2]。当時広海家では7隻の千石船を所有しており、1874年に二三郎を主任に小樽支店を開設、折から起こった西南戦争の特需で巨利を得た[2]。1879年には北前船主として初めて西洋型帆船を複数購入して成功し、1886年に大阪に移り、1888年に北前船主として初めて汽船を購入、大きな賭けであったがこれも成功させた[2]。広海汽船を設立して社長となり、1904年には貴族院の多額納税者議員となった[3]九州硫黄石炭の鉱山経営も行い、1908年に広海商事を設立し、家業を大きく発展させた[3]。また北前船主を集めて日本海上保険を創立したほか、大阪商業会議所議員なども務めた[4]

脚注

関連項目

外部リンク




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