游顕
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游 顕(ゆう けん、1210年 - 1283年)は、13世紀半ばにモンゴル帝国に仕えた漢人の一人。深州束鹿県の出身。
『元史』には立伝されていないが『牧庵集』巻22栄禄大夫江淮等処行中書省平章政事游公神道碑にその事蹟が記され、『新元史』には游公神道碑を元にした列伝が立てられている。
概要
游顕の先祖は崞県の名家であったが、金末に貞祐の南遷に従って一家を挙げて許州臨潁県に移住した[1]。1232年(壬辰/太宗4年)、モンゴル軍によって許州が占領された時に游顕の家族も捕虜となったが、游顕がモンゴル語に堪能であったことから大帥バルス・ブカ(巴爾斯布哈)のもとで抜擢されていった[1]。第一次南宋侵攻が始まると、千戸のアルスランの配下に入って房州攻略で南宋の何太尉を捕らえる功績を挙げ、また襄陽城を占領した際には副ダルガチに任じられた[1]。しかし、襄陽城の劉儀らが裏切って南宋に下ると、游顕は捕らえられて建康に送られた[1]。游顕の才能を惜しんだ太尉の劉石河によって孟珙の下に派遣されたが、游顕は夜間に逃れ出て、千戸のアルスランの下に帰還することができた[1]。1240年(庚子/太宗12年)、游顕はオゴデイ・カアンの下に入見すると、白金5万両を下賜され、さらに襄陽の民200家を佃戸として与えられた[1][2]。
モンケ・カアンが新たに即位した後も引き続き四川方面で起用され、ある時モンケの前では酒を飲まない理由を尋ねられたところ、「今は軍務に命をかけており、これより10年は酒を飲むつもりはありません」と答えてモンケを喜ばせたとの逸話がある。1258年(戊午/憲宗8年)からはモンケ・カアンによる南宋領四川への親征が始まったが、劉敏を始めこの親征に反対意見を述べる者もおり、游顕も「四川は水の流れが急な上、山岳地帯で道も険しく、水陸共に通交の困難な地である」として遠征が困難であることを訴えた[3]。その上で、游顕は四川よりも長江中流域の江漢に出るべきであると進言したが、モンケ・カアンは江漢方面は弟のクビライに任せていると述べ、游顕もクビライの指揮に入るよう命じた[3][1]。そこで1259年(己未/憲宗9年)、游顕は蕩陰でクビライに合流し、鄂州の役にて長江を渡河する際には篙師(船頭)を900人集めてクビライを助けたという[1][4]。
モンケ・カアンが急死した後にクビライが即位すると、クビライは漢地統治のために十道宣撫使を新設し、大名彰徳等路宣撫使に張文謙を、宣撫副使に游顕を任命した[5]。張文謙・游顕らはクビライの根拠地である開平で任務をこなしていたが、游顕は1261年(中統2年)に張文謙の後任として宣撫使に昇格となり、同年8月には任地の大名に遷った[6]。1262年(中統3年)に山東地方において李璮の乱が起こると、李璮の拠る済南城包囲のための後方基地として大名は位置付けられ、游顕は新設された大名路宣慰司を統轄して李璮討伐にも尽力した[7]。このころ、ある者が游顕は李璮と密通していと告発したが、クビライはこれを信じず、李璮の敗亡後もそれを立証する文章は出ることがなく、游顕の無罪が証明された。これにより游顕を告発した者は逃れたが、数年経って游顕は妻子を通じて告発した者を呼び出し、その罪を許して昔のように遇したとの逸話がある[8]。
またこのころ、クビライの息子のチンキムが中書令・枢密使に任じられて国政に参加するようになっており、ある時クビライの下で游顕にも意見を求めた[9]。そこで游顕は「宣撫司」を「宣慰司」を改めたが実態は変わらず、不評であることを歯に衣着せず指摘し、その言を認めたクビライはチンキムに「将来汝が頼るべき者は、このような人物であるべきだ」と語ったという[9][10]。
1265年(至元2年)には嘉議大夫・益都路総管兼府尹の地位に進み、それからほどなく南京路総管兼府尹に改められた。1267年(至元4年)には大都路総管兼府尹とされ、1269年(至元6年)には河北河南道提刑按察使の地位を授けられた[11]。
1271年(至元8年)からは総管水軍万戸に改められて襄陽包囲戦に従事することとなった[12]。同年中には襄陽包囲のため、漢江上に七つの「石囷」を建造し、南宋水軍の接近を阻んだ[12]。その後、陝西四川道提刑按察使に改められたが、このころ新たに安西王に任命されたマンガラのため、順聖皇后チャブイが金帳を下賜したものの、これを憲府に置くことを陝西四川道提刑按察副使の張庭瑞が拒否したことが問題となっていた。この時游顕はかつて中書右丞相から宣徽使となったカルジンが中書省のことに尋ねられた際、「我は大釜を守る者(=バウルチ)であって、他のことは知る所にない」と述べて職務の分限を守った逸話を引いて張庭瑞を弁護し、結果として張庭瑞は軽罰に減刑されたという[13]。
この後、バヤンを総司令とする南宋領侵攻が始まると前軍宣撫使の地位を授けられてこれに従軍し、平江の包囲戦時にはわずか七騎の部下とともに城下に接近して投降を呼びかけ、王安撫を降らせることに成功している[14]。
1276年(至元13年)に南宋の首都の臨安が陥落したことを受け、1277年(至元14年)には中奉大夫・浙西道宣慰使の地位を授けられた。1278年(至元15年)、クビライの下に入覲した時には老齢であることをいたわられて榻坐を下賜された。また1279年(至元16年)には中書大夫・中書右丞の地位を授けられている[15]。
1282年(至元19年)までに江淮等処行中書省平章政事の地位にまで昇任したが、この年に揚州の官舎で74歳にして死去した[16]。
張氏・趙氏・完顔氏という三人の夫人がおり、息子には游永錫・游永禄・游天祥・游永弼らがいた[17]。
脚注
- ^ a b c d e f g h 牧野 2012, p. 364.
- ^ 『牧庵集』巻22栄禄大夫江淮等処行中書省平章政事游公神道碑,「游世不可遠、本考逸其諱、妣呂代之。崞県鉅姓、歳為羊裘三千、以衣寒者。傭工鑱平太和嶺石、路艱崎、歩軔售直白金為両五十。又伐石橋崞水以通夏冬閡漲病渉、郷民恵之、目為崇善老人。天馬南牧、金宣宗播汴、徙君許之臨潁東皋卒其地。歳壬辰、抜許公隷大帥巴爾斯布哈帳下、由是善国言、俾経歴其府事。後同千戸阿爾烏蘭従諸侯王南征、破金商鈔房、擒何太尉。襄陽下、帥府版為副逹嚕噶斉。軍将劉儀・段哈雅実克叛、執公送建康。太尉劉石河言其材武于制置孟珙。会珙移節于鄂、遣石河防秋淮漢、公説珙求為前茅、遂得倶北。将及随、与田僧住二騎夜遁、豺虎縦横、出入林莽、瀕死数数。及鄧之新野、適阿爾烏蘭巡徼、相顧悲喜。偕至大将察罕所、為駅致龍廷。歳庚子、入見、具陳恩主棄妻子、挺身来帰、及自建康抵鄂州軍鎮戍形便、兵食虚実、我加兵誅、可以必挙。太宗喜、顧邇臣曰『若輩曽微一言及此』。因嘉歎公『昔太祖由、一回鶻迎降、賜以羊馬、授之璽書、従其所為、人無誰何。卿自脱敵死、間関以来、又非其所欲』、賜白金五万、其両用之有竭。其封襄陽新民二百家、世為佃民、加錫銀符、錦衣二襲、亦授之璽書、従其所為、人無誰何、帰率是民。復堰鉄拘、壅湍水為渠、漑稲田千数百頃、人頼其利」
- ^ a b 李 1988, p. 715.
- ^ 『牧庵集』巻22栄禄大夫江淮等処行中書省平章政事游公神道碑,「後宿衛、憲宗制授之璽書、従其所為。拉吉爾廸幕長且行、賜之酒、辞。帝曰『卿辞朕前、将飲無人所耶』。公曰『臣何敢面欺、今既効死軍前、請従此十年不御』。帰至鄧、大帥軍漢北、敵壁間寂無人、開門抜幟、招諸軍進。及帝自将伐宋、謀由蜀入兵及散関、公諌『巴蜀水則江流悍急、陸則陟降山巘、舟車皆不可施利、餽継甚艱、六軍出此、恐非万全之策、不若取道関東、夷途直臨江漢』。世祖時方淵龍、帝曰『左方之師、朕已付之、業已至此、其有時宜、即彼言之』。歳戊午也。明年、世祖已禡而南、追覲于蕩陰、教自今凡所欲言、指故平章政事廉公、時以宣撫従征、偕以入告。大軍至黄陂、責中書納罕資取敵舟。公言、斯人傲忽于事、恐既集者不厳守警、将復散走。而果然。俾公治別帖万戸戦舟、而篙師不足、公曰『江南之民居多瀕水、無不能操舟者。尽前俘壮士、立両幟、下令能右否左』、得九百人、遂済江。授之銀章、行宣撫使」
- ^ 牧野 2012, p. 317.
- ^ 牧野 2012, p. 318.
- ^ 牧野 2012, p. 319.
- ^ 『牧庵集』巻22栄禄大夫江淮等処行中書省平章政事游公神道碑,「世祖正位宸極、中統之元、制位中書左丞・大名宣撫使張公仲謙下。明年、代張公為使、其褒辞曰、割愛就義、遇敵有功。処己端方、臨事敏給。又明年、李璮反、盗拠済南。張公撫訟公嘗通書璮、帝謂近習『游某豈為是者、鷙禽為狐所憎然耳』。及籍璮家而書無有、勅以訟者付公、聴其甘心、其人亡命。踰年、公召至其妻子、暁之令出、保無他也。其人膝行于庭、祈死、曰吾誠為是、汝言而可、吾所無有、而汝言然。汝為妄人、勅聴吾甘心、則生死惟吾、吾其忍汝殺。如昔遇之。公以平賊入賀進宴。故事、非宗臣国人、胡牀不入宮門、殿坐皆席地、不為設榻、侍宴不称觴。至是、公請称觴、制可之。後賜黄金盈斤」
- ^ a b 牧野 2012, pp. 385–386.
- ^ 『牧庵集』巻22栄禄大夫江淮等処行中書省平章政事游公神道碑,「他日、帝燕坐虎帳、方止人入。公至、為衛士所訶、争呼于庭。帝曰『是非游某声耶』。召入詰曰『何為而然』。公対『臣将有請、為衛士所邁、不知疾言上徹宸聡、罪当滅死』。帝黙久而出之。裕宗時為中書令・枢密使、適至。復召之人、令尽所言。対以『臣聞、将改宣撫司為宣慰司。且司者、官之名也。使而下官之人也。由所官之人非才、事故弛而不治。何関乎官之名。今雖変名宣慰、不求惟賢惟能任之、仍夫宣撫之人猶悪。夫鼓不鳴、而新其枹。声豈加大哉』。因歴短諸臣、無少借隠。帝顧裕宗曰『汝他日求可眷倚者、須此輩人』」
- ^ 『牧庵集』巻22栄禄大夫江淮等処行中書省平章政事游公神道碑,「至元二年、進嘉議大夫・益都路総管兼府尹。未幾、改南京路総管兼府尹。四年、改大都路総管兼府尹。公因以乗輿歳来居冬、其儲峙穀食馬藁秸諸物、和市之民直多不給、為所司盗。有豪宗鉅室、田疇連阡、有恃不輸、中下之家率反戸及。公則以物力多寡差賦之直已無所漁牟。敢有為旧驁猾者、悉論如律、民力紓息其半、賜楮幣五千緡。入言、左右両丞相、安図・巴延二大臣者、一居中書、其事足治。宜分命左丞相為枢密、則六軍之政、将日斉粛于前。制可、以巴延同知院事。六年、授河北河南道提刑按察使」
- ^ a b 李 1988, p. 1006.
- ^ 『牧庵集』巻22栄禄大夫江淮等処行中書省平章政事游公神道碑,「八年、襄陽用兵之四年、改総管水軍万戸、創石囷七于漢中流、以絶敵舟、馘囲之兵千。改陝西四川道提刑按察使。皇子安西王国秦未至、公見之六盤、順聖皇后賜金帳、載数十車。用事臣欲置憲府、奎鈞慶賜之閣。憲副張庭瑞不受、曰『汝総管自有府、其即彼以置。留車一夕』。用事臣纔其不恭、鋭欲深治、力陳辯、且責其人。霰珍罷右丞相、入為大官、人有事干者、斥曰『吾守大釜鬲者、他非所知』。汝王食官、不師此而行、乃越職沮撓風紀、或帝聞之、謂王弗戢左右也。王雖不善、以受知列聖、身見其摧大臣于庭、且聞帝託裕皇于他日者、庭瑞由以得受軽罰二」
- ^ 『牧庵集』巻22栄禄大夫江淮等処行中書省平章政事游公神道碑,「巴延済江下鄂、帝曰:游某曩者曽事列聖于朕前、策取江南熟矣、非直能言、亦能為者。今聞済江而独不与、意必熱中、其召以来。授前軍宣撫使。大軍臨蘇、公従七騎薄城、呼曰『我游宣撫也、来暁告爾州州将。丞相奉詔諾諸軍以平江南、誅賞精明、其早自来帰、取富比他州将。不然、梯衝一樹則加誅、後服為屠、屠常州続耳、無殃生歯数百万也』。王安撫即以城下、公身至坊市、集吏民、諭以天子仁聖威徳軍律、降城不誅、其安爾室家無恐。或持金為謝、曰吾非利貨為者。授蘇州宣撫使、遣人四出招来逋民、凡得十三万家。貸倉穀為石百三十万、為種于民、約秋熟償官、民歓輸之、無少折閲」
- ^ 『牧庵集』巻22栄禄大夫江淮等処行中書省平章政事游公神道碑,「十四年、授中奉大夫・浙西道宣慰使。杭民聞来、相語曰吾属幸哉、善撫安蘇州者、游公至矣。明年入覲、布幣蕭墻。俄帝輦至、顧謂之曰『卿老人、宣力良多』。一日俾坐胡牀、持杕指使宮門、何事不集。其日入宴、坐賜之榻、輟大官所上飲食之。後疾、遣使医持薬、衣白貂裘、皆殊恩也。疾已、入謝、言『江南頼陛下神武、文軌一矣、惜往敷宣聖化者不称任使』。勅語之中書。其年、国人為浙西宣慰使者死、省奏以国人嗣為。上曰『游某非国人何』。且指盗殺臣為平章者曰『是不可居汝下者、豈可久使亜人』。明年、授中書大夫・中書右丞、行浙西道宣慰使。又明年、用兵日本、江淮・福建・湖広之兵将十万衆、皆斉集、資食于杭、凡廩米八十餘万為石、又造海艦若干百艘。材不足于足、勧富民佐木、皆酬其直。又鍛治甲仗、一令之下、星火不喩其急、動以失軍興、緩制勅従事。其堂帖無如瓢・木・弩・莝刀、皆預為千事。盗殺臣益忌、乃好言入聞、游某高年、当以某人為使、少分其労、実欲遣位公右。上召其人至、曰『游某老人、汝可父事、其欲位汝其下三四、何所』。惟其言従」
- ^ 『牧庵集』巻22栄禄大夫江淮等処行中書省平章政事游公神道碑,「十九年、是臣見殺于盗、其姻党貪墨姦窳、上盗公帑、下厲斉民者、諸不法皆露、而東南新国尤罹其毒。公為鉤考、惟是一省徴贓四百餘万為緡。明年、明州民饑、貸米石五万餘、約償如杭。及再用兵日本、詔軍与百需責使供億。其時已疾、猶支持視事、尋薨于揚州官舎。斯其所履歴措注、寵数大者。自餘其敏政如尹京日、必待命于庭、秉令中書、乃帰治府。雖事叢至其前必決、一或然火達曙、不得家食、則必取之市。霜雪寒慓、至宿于野、与造海艦于杭役場、達城二十里、比暁已至、督視竟、則聴政于司、夜必二鼓方息。其恤孤独、或為人所抑、則不大声色、呴呴導使尽言。事雖無迹、計数以求、必得其情。其推誠感物、如南京盗数人窃戍軍之馬、于律当倍其償。軍迫南征、為先假諸公帑、同署者難之、公則曰:過則在余、不及諸君。与之期日、縦盗帰取之家。如言而反、悉輸之官、受罰不訢。為杭生獲荷葉浦賊周先鋒輩四人、公曰堂堂宋室、国家、取猶覆掌、鼠子何為?皆官以巡検、給衣服貨財遣之、曰能与而餘党捨賊為平民、惟汝、反面叛帰亦惟汝。旬月招其党、傾其巣窟。牛天王拠海島、官軍加誅、積歳不能平、公惟遣象山僧往説之、乃与之偕来。凡此皆事動天聴者也」
- ^ 『牧庵集』巻22栄禄大夫江淮等処行中書省平章政事游公神道碑,「三夫人、張氏・趙氏・完顔氏。子男四人、永錫・永禄・天祥・永弼。永禄知延安之綏徳州、天祥入侍裕廟于東宮、与永弼皆不禄。女六人、長適陝西行省男趙某、次適提挙男路構、次適襄陽路総管馬国璧、次適蘄黄等路副宣慰呼図克岱、次笄而夭、季適史太尉忠武公孫知安陸府史熾。男孫四人、偃・億・倫・僎。女孫二人、長適提点奉宸庫爾佳思政、幼在室。男曽孫三人、元嗣・元偉・元暉。女曽孫八人」
参考文献
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