渡辺央
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渡辺 央(わたなべ なか、天保8年(1837年) - 明治27年(1894年)9月9日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。徳島藩士出身で、佐賀の乱鎮圧や明治初期の陸軍教導団の運営に関与した。
生涯
天保8年(1837年)、徳島藩の高取諸奉行・渡辺尚周(作之丞)の子として、徳島上下の福島中ノ丁北側東角(現・徳島市)に生まれる[1]。
明治維新後、徳島藩で軍事掛大属を務め、明治3年(1870年)には卒族受待ちとなる。同4年(1871年)3月9日に陸軍少佐心得、同年9月18日には兵部省七等出仕に抜擢され、翌5年に正式に陸軍少佐となった[1]。
明治7年(1874年)の佐賀の乱では、野津少将の参謀を務め、随行していた児玉源太郎を従え出征した[2]。その後、明治8年(1875年)3月13日に熊本鎮台参謀長に就任し、翌9年6月19日には陸軍卿官房副長となる。
明治11年(1878年)12月14日、陸軍教導団次長に任じられ、明治12年(1879年)3月24日に陸軍大佐に昇進。明治14年(1881年)3月16日に教導団長となった[3]。
明治19年(1886年)9月30日に歩兵第4旅団長心得を命じられ、同年12月23日に陸軍少将へ昇進し、正式に旅団長となる。明治23年(1890年)6月7日、陸軍理事・法官部長に転じ、明治26年(1893年)4月12日に休職。明治27年(1894年)9月9日に死去した[1]。墓所は興源寺(徳島市助任町)[1]。
栄典・位階
- 明治12年(1879年)3月24日 - 陸軍大佐
- 明治19年(1886年)12月23日 - 陸軍少将
・正四位・勲二等
脚注
- ^ a b c d 徳島県人名辞典 別冊 1994, p. 347.
- ^ 長州の二総理四大将 1993, p. 102.
- ^ 陸海軍将官人事総覧 陸軍編 1993, p. 17.
参考文献
- 『陸海軍将官人事総覧 陸軍編』 芙蓉書房出版、1993年、17頁。
- 三好啓治『長州の二総理四大将』 三好啓治著、1993年、102頁。
- 『徳島県人名辞典 別冊』 徳島新聞社、1994年、347頁。
| 軍職 | ||
|---|---|---|
| 先代 滋野清彦 |
1886年 - 1890年 旅団長心得 1886年 |
次代 小川又次 |
| 先代 高島鞆之助(→欠員) |
1881年 - 1886年 |
次代 阿武素行 |
| 先代 堀江芳介 |
1878年 - 1881年 |
次代 永持明徳 |
| 先代 (新設) |
1876年 |
次代 高島茂徳 |
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