混戦の最中に死す
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/09/07 07:59 UTC 版)
同年9月、第2次奉直戦争が勃発すると、蕭耀南は当然直隷派として参戦した。馮玉祥の北京政変(首都革命)により直隷派は敗北したため、蕭は、逃れてきた呉佩孚を湖北省に迎え入れた。しかし蕭は、国内情勢の変化を見て段祺瑞に接近し、もはや呉を積極的に支援しようとはしなかった。むしろ呉が再起を図ろうとするたびに、これに圧力を加えて下野に追い込んでいる。 1925年(民国14年)7月ごろに奉天派が南方に勢力を拡大してくると、蕭耀南は、再び呉佩孚を湖北省に迎え入れた。呉は、奉天派討伐のための14省討賊聯軍司令部を設立し、蕭は湖北討賊聯軍総司令兼後方籌備総司令に任命された。その後まもなく、呉は奉天派と関係を修復している。呉が馮玉祥討伐のため河南省に進軍すると、蕭は湖北でその背後を固めた。しかし、その戦いの最中の1926年(民国15年)2月14日、蕭は肺病により急死した。享年50(満48歳)。
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