浅井図南とは? わかりやすく解説

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浅井図南

読み方あさい となん

江戸中期画家本草学者名古屋藩儒医京都生。浅井東軒の子。名は初め政直のち惟寅、字は夙夜通称頼母別号に幹亭・篤敬斎。画を望月玉蟾学び、特に墨竹に秀で平安四竹の一人数えられている。天明2年(1782)歿、77才。

浅井図南

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/27 02:43 UTC 版)

藤浪剛一『医家先哲肖像集』より浅井図南

浅井 図南(あさい となん、宝永3年11月13日1706年12月17日) - 天明2年8月5日1782年9月11日))は、江戸時代中期の医者。名は政直、字は惟寅、通称は頼母幹亭篤敬斎とも号した。

人物

医師・浅井東軒(周迪、1672-1753)の子として生まれる[1][2]。生まれは、京都とも、長州ともいう[1][3]。幼名は冬至郎周北。医師の家系5代目であり[4]、祖父の浅井策庵も京で名の知られた医師だった[2]

享保10年(1725年)、父・東幹が徳川継友に禄400石で招かれ尾張藩藩医となって名古屋に居を移したが[2]、図南は京都に留まって医業を行った[1][5]

史記第105巻の『扁鵲倉公列伝割解』を著したが、これは扁鵲倉公列伝単独の注釈のはじめとなるもので、室町時代の『史記』研究と江戸時代後期の研究の中間点にあって、研究史において重要な位置づけとなった[6]。のちに奈須恒徳によって補修されている[7]

画に優れ、特に墨竹画については、宮崎筠圃山科李蹊、御園中渠とともに「平安の四竹」と称された[1][3][5]

後に父・東軒の死を受けて、父の跡を継ぎ尾張藩医となる[1][3][5]

天明2年(1782年)、77歳で没した[1][5]。以降子孫が藩医を継いだ[2]

脚注

  1. ^ a b c d e f 『大日本人名辞書 上巻』33頁
  2. ^ a b c d 浅井東軒日本掃苔帳
  3. ^ a b c 『扶桑画人伝 巻之四』29丁裏-30丁表
  4. ^ 『日本医史学雑誌』46(4)(1500),『扁鵲倉公列伝割解』の研究--現伝本における書き入れおよび旧蔵者 / 宮川 浩也/p565~586,日本医史学会,2000-12
  5. ^ a b c d 『愛知県医人伝』9頁
  6. ^ 『日本医史学雑誌』46(4)(1500),『扁鵲倉公列伝割解』の研究--現伝本における書き入れおよび旧蔵者 / 宮川 浩也/p565~586,日本医史学会,2000-12
  7. ^ 日本医史学会 編『中外医事新報』(1199),p365,日本医史学会,1933-09.

参考文献

  • 大日本人名辞書刊行会 編『大日本人名辞書 上巻』(大日本人名辞書刊行、1926)
  • 古筆了仲 編『扶桑画人伝 巻之四』(阪昌員、1888)
  • 手島益雄『愛知県医人伝』(東京芸備社、1924)


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