治田家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 01:35 UTC 版)
員弁郡治田城主、文明年中に滅亡したとされる中山城主・治田与七郎も同族か。治田五兵衛・治田山城守の2代が居城したとされる。「北伊勢軍記」によれば、治田五兵衛は白瀬城主・近藤弾正左衛門尉吉綱と常に争い、永禄4年(1561年)4月25日、五兵衛の嫡子・治田山城守は500騎を率いて夜襲を仕掛け吉綱を討ち取っている。永禄年中に滝川一益によって滅ぼされたとされる。美濃部家家譜によれば、近江国甲賀郡の城主・美濃部一学の子孫である美濃部九郎右衛門は代々治田の領主となり、一学の十二世が美濃部山城守を称し、これが治田山城守であるという。山城守の子・美濃部九郎右衛門は豊臣秀吉に仕えて桑名郡南之郷の合戦で討死し、その子孫は備前国にあるとされる。なお治田城には楠木正具が居城したとも伝えられ、治田山城守は楠木正具の変名であるとも、治田山城守と楠木正具は同時に両存したとも伝えられているが、いずれも未確定である。
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