油幄事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/17 07:30 UTC 版)
1680年3月28日、南人の許積は、自身の祖父が諡を受けるのを祝う延諡宴を催した。許積は宮中で強大な権力を持っていたため、各司と全国八道および文武百官が集まった。しかし、「祭に来る者のうち、金錫冑と金万基は殺される」という噂が流れた。許積は金両氏を招待するために書状を五回ずつ送ったが、噂を十分に知っていた金錫冑は病気を理由に欠席し、金万基はあえて延諡宴に遅刻し、毒殺を恐れて他人の杯を奪って飲み、自らは順杯が来ても受け取らなかった。その時、たまたま雨が降っていたので、粛宗がこれを心配して特別に宮中で使う油を引いた天幕と日よけを持って行ってあげなさいと命じたが、許積がすでに天幕を無断で持ち出していた。それに対して粛宗は気分を害し、侍臣に様子を探らせた。侍臣が探った結果、祭に参加していたほとんどが南人で西人はわずかだった。 そこで、粛宗は王宮の門を閉じるなと命じたうえで、柳赫然・申汝哲・金万基を牌招した。そして訓錬大将を柳赫然から金万基に、さらに摠戎使には申汝哲といったように西人が大胆に登用され、大挙して要職を占めた一方で、南人は辞職したり追放されたりした。また、「油幄事件」は「遮日事件」とも呼ばれる。
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