河川と簗田氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 19:40 UTC 版)
簗田御厨から下河辺荘に移った背景に関して、どちらも渡良瀬川・太日川水系に面していたため低湿地が多く、水害対策技術が荘園経営に必須であった点が指摘されている。簗田氏はこのための特殊な技量を持ち、鎌倉府御料所経営の適任者として認められていたと考えられている。 古河公方期にも、簗田氏が拠点とした関宿地域は、当時の関東地方の二大水系、すなわち、常陸川水系(現在の利根川下流域・霞ヶ浦・北浦)及び東京湾へ流れ出る旧利根川・渡良瀬川(太日川)水系を連結する交通・物流の要衝となっていたことは良く知られている。さらには、江戸湾~旧利根川・渡良瀬川の水上交通、すなわち、鎌倉~品川湊~水海・関宿~古河の物流ルートを把握してきたことも特筆される。 簗田氏が鎌倉公方・古河公方の重臣として地位を向上させていく背景には、川との関わりが重要な要素となっている。
※この「河川と簗田氏」の解説は、「簗田氏」の解説の一部です。
「河川と簗田氏」を含む「簗田氏」の記事については、「簗田氏」の概要を参照ください。
- 河川と簗田氏のページへのリンク