河崎の誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/07 23:10 UTC 版)
現在河崎と呼ばれている地域は鎌倉時代には「河辺里」だったとする説があるが定かでない(後述)。 中世に勢田川西岸に民家ができたと見られ、北条氏の遺臣である左衛門太夫宗次が田畑を開墾し、宅地を開いたという。左衛門太夫宗次は後に河崎氏を名乗るようになり、開拓地に関門を置いて城郭さながらの町を築いたとされる。1439年(永享11年)の『道後政所職事記』には「箕曲継橋両郷代官職」に補任された七郎兵衛督が「除河崎」とされたという記述があり、この頃には河崎が地名として定着したようである。ただし、勢田川河口の大湊の入港記録である『船々聚銭帳』の1565年(永禄8年)分には「川崎」と表記されている。法楽寺に残る史料によると当時の河崎は法楽寺の「河崎領」であり、2人に半分ずつ分け与えられたという。この時代には、神社(かみやしろ)などとともに河岸として整い始めたと考えられている。
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