水あがるさがるくらやみ椿を踏み
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春 |
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前 書 |
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評 言 |
「東日本大震災」の津波を思う。津波の直接的な像ではなく二次的な像からの俳句ではあるが、作者の現在と二重化されているため時事を超えて立ち上がってくる。 即物的に「水」を置いたあとの「あがるさがる」そして「くらやみ」の平仮名表記は外に向けた意識を内に向けていることを示唆しているようだ。漢字表記の造形力を消すことにより、一音一音内に浸透していく。そこには「津波」の追体験と私(現存在)の相互浸透、つまり肉化していく時間を読み取るのである。津波の恐怖と作者の生の「くらやみ」とが―たとえて言えば、それぞれの波が出会って振幅を増すように―出合うのである。 座五の「椿を踏み」もまたそうであって、作者の意識は椿の像に向かうのではなく、触覚に向かう。ゆっくりと踏みつぶすその感触は「水」に戻り、戻った「水」は即物的なそれでなく、繰り返し作者を漂わすことの暗喩としての「水」に変容している。 |
評 者 |
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備 考 |
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