氏子総代との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 19:45 UTC 版)
明和3年(1766年)礒宮境内の立木を無断で伐採、御留山の新宮山から石を掘り出し、騒動となった。 宝暦12年(1762年)以来確執のあった氏子総代・下市年寄兼庄屋角屋正三郎は、高崎村から本家筋の唐崎下総を招いて神事を任せ、的場山に別の社殿を建て、明和4年(1767年)士愛の所払いを求めた。これに対し、士愛は許可なき社殿新築を非難し、年寄吉井当聡は「いずれの主張も判定し難し」と曖昧な判決を出し、訴えを握り潰した。
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