武の成立と中世
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武という地名は南北朝時代より見え、薩摩国鹿児島郡のうちであった。武は「田毛」、「嶽」とも書かれている。 建徳3年(1372年)の薩藩旧記雑録に収録されている「禅恵譲状」には「さつまのくにかこしまのこほりのうち、たけむらハうハうのかとの事」とあり、村内の門の田地や山野が禅恵の子息二郎四郎(久成)に譲与されているとある。応安7年(1374年)には武村が久成からとよまさに譲与された。応永10年(1403年)には島津元久によって宿敵である渋谷氏の渋谷重頼に武之村が与えられている。武村にある建部神社は鎌倉時代に大隅国小根占郷(後の肝属郡根占町、現在の南大隅町の一部)において創建されたもので、永正17年(1520年)には武村の高麗(現在の高麗町付近)または、上之園(現在の上之園町付近)に移転し、明和頃に現在地に移転したものである。 地内の武岡山上(現在の武岡周辺)や野元原は南北朝期の古戦場跡である。武村は田上村と共に天正年間頃より開発がすすめられた。
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武の成立と中世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 10:06 UTC 版)
岳という地名は戦国期より見え、大隅国向島のうちであった。天文6年の本田紀伊守宛島津勝久宛行状に記述が見えるのが地名の初見であるとされる。天正元年以降は北郷時久領となった。
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