正法寺 (岐阜県白川町)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/07 11:26 UTC 版)
| 正法寺 | |
|---|---|
| 所在地 | 岐阜県加茂郡白川町黒川2746 |
| 山号 | 向陽山 |
| 宗派 | 曹洞宗 |
| 本尊 | 聖観世音菩薩 |
| 創建年 | 寛永元年(1624年) |
| 開山 | 傳室梵的 |
| 開基 | 瑞應玄的 |
| 中興年 | 享保6年(1721年) |
| 中興 | 大年 |
正法寺(しょうほうじ)は、岐阜県加茂郡白川町黒川にかつて存在した曹洞宗の寺院。山号は向陽山。
黒川では、正法寺の後継寺院として明治後期に曹洞宗の豊川寺が創建されて今日に至っている。
歴史
元は、中ノ平にあった正覺院という寺を、正法寺に改号したと伝わる。
岐阜県加茂郡白川町和泉にある洞雲寺の末寺として創建された。
江戸時代に当地を支配した苗木藩主の菩提寺であった雲林寺は、領内の寺院を悉く臨済宗妙心寺派に改宗して末寺としたが、
正法寺は曹洞宗であったがために、改宗を強制せずに、法類[1]に準して客位として扱った。
神職の藤井家に伝わる過去帳によると、
洞雲寺文書によると、
とあるので、正法寺も洞雲寺の末寺となる前に全身があったことが分かる。
寛政5年(1793年)、五世の本英の代に、本堂・庫裡・禅堂などが整備された。本堂は総ケヤキ造で100畳敷もある立派なものであった。
寛政五 癸丑年、當寺五世僧 本英長老代 易地 再建立に御座候。尤も當寺庫裡も 五世 本英長老建立に御座候。禅堂の儀、五世 長老代建立に御座候。幷に法藏の儀も 五世 長老代建立に御座候。一 當寺境内 五反 御座候 ... (以下省略)
文政五 壬午年 九月 濃州 加茂郡 黒川村 正法寺(印)
寺境 五反歩(50a)という広い面積に建立されていた伽藍は洞雲寺を通じて龍泰寺へ提出された届書によると
一 客殿 長八間 梁八間 一 禅堂 長五間 梁四間半 一 玄関 長四間 梁三間 一 長屋 長七間 梁二間半 一 土藏 長四間 梁三間
黒川村に700戸の檀家を持ち隆盛を極めた。曹洞宗の紫衣地でもあったため、「黒川に、過ぎたの正法寺」と称したほどであった。
天保7年の火災
天保7年(1836年)元旦の夜、火災によって大伽藍は灰燼に帰した。洞雲寺に残る古文書によると以下の通りである。
(第一信)
乍恐口上書一 正法寺庫裡より 今晩四ッ過頃に 出火仕候様子にて、客殿まで焼失仕候。尤も委細は火急の儀故、相分り不申候。尚又追々可申上候得共、先此段、乍恐御届奉申上候。以上。
天保七年 申 正月一日
洞雲寺 御役寮様
(第二信)
乍恐御届奉申上候事當村 正法寺 昨夜四ッ過頃に、玄關奥の寮、炬燵の辺より 出火仕候に御座候處、至って火勢強く、両方に燃え別れ、大火に及び、村中のもの共 追々駈付、多勢には相成候得共、中々以て、消方行届不申、客殿・前堂・庫裡・土藏焼失。尤も本尊・印板・戒名帳は 別條無之候得共、其外は不残焼失仕候。
右の趣、乍恐爲 御届 如此御座候。以上
天保七年 申 正月二日
洞雲寺 御役寮様
(第三信)
乍恐口上書新春の御慶賀奉爲祝候。然ば正法寺 昨夜焼失仕候に付、夜前 以 別紙 御届け奉申上候處、尚又々 篤と見届の上、再應御届奉申上候。御覧の上 宜敷奉願上候。
一 本文 御届書には不申上候得共、御綸旨 幷に 過去帳とも、焼失仕候様子に相見え申候。此段 宜敷奉願上候。
一 正法寺に被致住居候 先住 本孝和尚 御弟子の文教尼、最早 左程と被申候處、昨夜出火の節に門前まで出で 被申候様子に付、段々相尋ね候得共、行衛不相知候處、土藏屋敷に被致焼死、今朝 漸々見当り申し候。此旨 幷に 焼失の次第 逐一 苗木役所 其向へ相届申候。
一 御録山届の儀は、私共 不案内の儀につき、万端宜敷 御差図 被願出候様に 奉願上候。その外、使人共に 被遊御聞取 可被下候。右の趣 御内々 奉申上候。以上。
天保七年 申 正月
洞雲寺様 御納所様
再建への動き
嘉永2年(1849年)、鳳仙から洞雲寺の御役寮に対して、次の願書が提出されているので、この規模で再建されたと考えられる。
以書付御願申候事 一 拙寺本堂の儀、天保七年焼失に付、其後往々再建の用意も致置候得共、時 不至して 拾四ヶ年來 等閑に相成居候處、今般 壇中一同発起の上、先規の通り 七間半 四面に再建支度存候間、右願の通り御聞済 被下置候間、偏に奉希上候。右の趣 御内々 奉申上候。以上。加茂郡 黒川村 正法寺(印)
鳳仙(花押)
嘉永二[6]巳酉年
洞雲寺 御役寮
右 鳳仙長老 願の通り、毛頭相違無之候間、右願の通り 御許容 被仰付 被下置候はば、難有仕合に可奉存候。
以上。
黒川村庄屋 原頭二(印)
同檀中總代 林十郎(印)
廃仏毀釈により廃寺となる
明治3年(1870年)苗木藩の廃仏毀釈によって廃寺となり取り毀された。
時の住持は白毛であったが神官となって、加藤民衛と称し、後に大社教訓導となった。
仏像の行方
檀中の者が闇に紛れて、開山の傳室梵的和尚像を、四里の山坂を越えて本寺の洞雲寺に運んで避難させた。
八百津町の大仙寺本堂の厨子の中に観音像が一体安置されている。この厨子には以下の墨銘がある。
像の出来栄えは良いが、後から彩色を施されていることが惜しまれる。
正法寺の跡地
昭和7年(1932年)、跡地に開山堂が創建されて、避難先の洞雲寺から戻された傳室梵的和尚像と、歴代住持の位牌が安置された。
その傍らには、歴代住持の墓碑である無縫塔群、馬頭観音と如意輪観音の石幢、経筒埋地や、
享和元年[8]十一月と刻まれた高遠石工の守屋吉十郎作の常夜灯等が残っている。
跡地から少し登った場所には、廃仏毀釈時に破壊された首の無い六地蔵が並んでいる。
参考文献
- 『白川町誌 通史編』 第三編 生活と文化 第五章 宗教 三 黒川村 ▽向陽山正法寺 p873-p877 白川町誌編纂委員会 1968年
- 『八百津町史 史料編』 第四編 民俗史料 第一章 藩文書 第七節 苗木藩の廃仏毀釈について 一六 黒川正法寺 p237-p238 八百津町史編纂委員会 昭和47年
脚注
- 正法寺_(岐阜県白川町)のページへのリンク